第329話 死んでました
ここ数日、完全に死んでました。完全に闇に呑まれてました。
リアルで色々ありまして、分かったこととしては、他人と自分を比べても仕方ないな、ということ。
あまりこういうことを書いても仕方ありませんが、僕が育った環境は、どうやらすごく歪んでいたらしい、と最近、よく感じる。
常に何かと比較されて、良いことと悪いことが、僕の中の感覚や感性、価値観を無視して、全部、親が決めていた。救いがないのが、親が言ってることが正しい、と僕が真剣に思っていたことで、自分が大人になってみると、親が言ってることが極端な理想だと分かってしまう。
自分らしく、という表現があるけど、これがある種の傲慢から来る言葉だとしても、僕らしさ、というものはなかったし、今もよく分からない。他人に求められる自分でいる、というような表現もありそうだけど、僕は求められなければ存在価値がない、と思っていた。
けど、親の期待に応えようと必死になったり、失敗して見放されたりしていれば、何かが間違っていたのは確実で、これはどうやら「主体」の喪失らしい、と分かる。
僕が幸運だったのはラジオに出会えたことで、ラジオ番組は誰でも受け入れるし、参加しようと思えば誰でも参加できる、つまり、僕が決めて、僕が行動する場所になった。誰も「この番組を聞きなさい」とは言わないし、「週にこれだけのメールを読まれなさい」とも言わない。お前は悪いリスナーだ、なんて言われることもありえない。僕は聞きたい番組を聞けるし、送りたいメールを送れる。ここには完全なる「主体」しかない。
物語を書くこともやっぱりそうで、設定を押し付けられたり、プロットを押し付けられたり、文体を強制されたりすることはない。まったくな自由、何のしがらみもない世界がここにもある。
最近は結構、人権みたいなものが確認されている動きが社会的にあるけど、僕はどうやら「自由」が好きな人間らしい。集団行動は苦手で、あまり人と関わりたいようでもない。それなら一人きりで、やりたいことをやっていたい。もちろん、社会の中における自由、というものがあるのは理解できるけど、僕はその枠組みもやや煩わしい。小さな社会である家庭のようなものも煩わしく感じるのが、やはり育った環境の歪みを感じさせるところ。家庭に自由はない、という前提が動かしがたく、明確にある。
なので、僕としてはできる限り縛られずにいるのが楽だし、そこに他人の存在があったとしても、比べるのはそっくりそのまま自分の不足と欠陥の明確化になるので、薄目で見て、そっと離れるのが最適らしい。
「ドラえもん」の中で世界にのび太一人になるスイッチが登場する回があるらしいけど、僕は意外に本気で、真剣に押しちゃうかもな。いや、元ネタをあまり知らないのですが。
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