第291話 現代文の要不要

 今回は学校教育における「現代文」とはなんだったのか、というお話。

 さて、僕は普通の小学校、中学校、高校、と進んだので、俗に言う「現代文」、もしくは「現代国語」みたいなものを学んだ、はずです。はず、と付け加えてしまうのは、その時の教材がなんだったのか、もう覚えていないからです。

 いろんな意見があって、例えば「はっきりした答えがない」、「答えが人の数だけある」という趣旨の理屈もあれば、文章を正確に読むのに必要な訓練、とする理屈もある。

 さて、現代文は必要なのか。

 僕が現代文的なものを学んで良かったと明言できる部分が一つあって、それは、半ば強制的に文章を読むことをさせられたために、最低限の読む力が身についた、ということです。最低限の、です。

 僕は小学生の時は全く本を読まなかった。つまり国語の授業はうまく作用しなかった。中学生の頃から国語は面白くなりましたが、それはどちらかと言えば、ライトノベルに手を出し始めた後なので、順序は逆。つまり、最低限の読む力でライトノベルを読み解こうとする中で、読む力みたいなものは身についたらしい。なので、読む力を身につける前の、最低限の力が学校教育の影響で、これを否定してしまうと、僕の場合は「読む力」は機能しなかったかもしれない。まぁ、学校の授業で何かが学べたという感触はないので、読む力を身につけさせるカリキュラムではなかったとも言えるのですが。

 これはまったく、当時は想像していませんでしたが、文章を書くこと、それも物語のような長い文章を書くことではなくて、ラジオにメールを投稿する時、この最低限の読む力が逆に作用したと感じています。最低限の読む力でも読める文章が、ラジオには必要だからです。僕も最初は勘違いしてましたが、ラジオで読まれるメールというのは、放送で読まれるのを聞いていると長く感じますが、実はすごく短文です。二百字程度かな、文字数をカウントしたことがないですが。この二百字に、流れのある展開を用意しないといけない。「○○がありました」、「☆☆と感じました」、「パーソナリティの方は**ですか?」というような簡単な展開がオーソドックスですが、言葉はだいぶ選ばないといけない。語尾に気を使うだけでも違うし、説明も簡潔にして、しかし自然にする必要がある。ラジオでメールを読まれるコツはいろんな人が様々に考えてるでしょうが、僕は短くすることを第一にしています。ちなみに、どこかで聞いたところでは、投稿する人の中には、自分の文章を声に出して読んで確認する人もいるようですが、僕はそこまではやらないかな。とにかく、短く、適切な表現の文章を作ることは、「読みやすい文」を作ることで、これは究極的には「読み間違える可能性がない文」を作ることです。最低限の読む力でも読める文、がこれです。ラジオにそんな文章を送る理由は、パーソナリティやスタッフを信じてないわけではなく、電波の向こうとこちらで、顔も見えなければ声も届かないわけですから、ただの文章でのみやりとりであるがための、安全策です。

 これは重要かもしれないので書いておきますが、高校生の時、国語の問題集が配られて、そこに現代小説を題材にした部分が何ページかあった。その中に、村上春樹さんの短編、たしか「チェリーパイ」みたいなタイトルでしたが、その一部が使われていた。本当に部分的に読んだのですが、なんというか、魅了された。その後、僕はこの短編が読みたいがために村上春樹さんの短編集を買ったりしました。そういう出会いがあるのも意味がある気がします。文章の面白さを知ってもらう、というような。

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