第278話 創作に求める要素
今回はふと考えたこと。
少し前、ツイッターで、高千穂遙さんという方が、人が死ぬ作品に触れるのを回避している、という趣旨と思われる発言をしていて、なるほど、と思った。
アニメを見る時、僕はあまり人の生き死にには拘らない。それよりも映像の良さとか、キャラクターデザインとかを見てしまう。作中での人の死は、僕の中では、無ではないけど、現実の人の死よりはややストレスが軽い。これは本当に僕の醜さですが、どこかの殺人事件で何人もが亡くなった報道に重いものを感じるけど、例えば岡崎律子さんの訃報や吉田直さんの訃報はそれよりも遥かに重かったし、今も重い。どうやら、人の死にさえ、重さに違いがあるらしい。
話を戻して、僕は小説を読む時、作中で起こる悲劇を想定しながら読むことはあまりない。つまり、死を期待して読むことはない、ということです。それはミステリを読む時にも、ほとんど期待してない、ということで、つまり重大な矛盾がある。「十角館の殺人」みたいなタイトルで、必ず死が描かれると分かっていても、僕はその中の死を「死」とは見てないらしい。つまり物語という歯車の一つが「死」であって、それは道具みたいになる。この辺りに、現実と創作の違いがわからない、みたいな表現をされる人間の価値観の難しさ、その一端がある。もし、現実での生き死にをある種の道具みたいに感じていたら、それはちょっと、怖い。
ともかく、僕が創作に触れるときには「死」は本来的な意味合いや重さを脱ぎ捨てた記号として解釈されるらしい。で、僕がその部分にこだわるかといえば、こだわらない。是非とも見たいとは思わないけど、絶対に見たくないとも思わない。創作が際立っていれば、許される、ということかもしれない。
これもツイッターで、どこかの誰かが、ミステリやホラー、サスペンスというような映画やドラマは好きだけど、ミステリ小説などは難しくてうまく場面が想像できず、読めない、という発言があった。僕もたまに感じるけど、文章を読む能力には段階があって、それは読書経験としてもあるし、文章を前にした時にギアチェンジするみたいに感覚を切り替える必要もある。ライトノベルにはライトノベルの、SFにはSFの、海外文学には海外文学のギアがある。そんな風に、あるいはその誰かしらも、何らかの過程を経て、コツを掴めば読めるようになるんじゃないかなぁ、と想像したりした。
僕が創作に触れる時、何を一番気にするかは、カタルシス、なのかもしれない。もしくは結び、だろうか。
何はともあれ、僕のこだわりのなさは、ちょっと、品がないかもな。そんなことを思っている。
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