第265話 閉じた世界と閉じてない世界

 今回はふと気になったので、ちょっと私感を書いておきます。

 たまたまツイッターで、よく分からないですが、亡くなった教師の方に関して様々な意見が出ていた。どうやら犯罪にまつわる話らしい。

 僕が感じたのは、言葉がどの「世界」に向けられているか、です。

 いろんな言葉がこの世界にはあって、誰かに賛同される一方で、同じ言葉が誰かを傷つけることがある。これは「言葉を選ぶ」ことが求められているようで、実は「言葉が届く範囲を選ぶ」ことが必要なのかもなぁ、と思ったりした。

 少し前に漫画か何かの新聞広告のイラストが物議を醸したけど、それもやはり「範囲」の問題だったのでは。

 僕がここのところ感じているのは、インターネット上という場所は、完全に「世間」になった。二十年前はもちろん、十年前でさえもどことなく「閉じた世界」だったけど、もうそんな感じはしない。二十年前のインターネット世界で僕が感じていたのは、某大型掲示板では下品な言葉が容赦なく飛び交うけど、他は明らかに「同志」が身を寄せ合うようなサイトばっかりだった。たぶん、今もそういう文化はあるだろうけど、もうネットサーフィンなんてほとんどない。SNSで事足りてしまう。事足りてしまうから、「世間」になったのかもしれない。

 例えば、動画投稿サイトから問題になったコンビニのおでんをつつく動画だって、本当に小さな仲間内、同じような気質の人の集まりの中だけだったら、秘密の悪ふざけ、みたいな感じで話題にならないかもしれない。ただ、メディアが「閉じた世界」の中だけで成立しない、それだからこそのメディアというもので、インターネットがあろうとなかろうと、実際にあったことを挙げれば、ラジオでめちゃくちゃなことを言った歌手がテレビなどで報道されて批難される、なんてことがあったわけですから、メディアは「閉じた世界を開く」ということが本能のようなものなんでしょう。

 僕が感じたのは、一人の人間に対して、「この人は良い人だ」と「この人はわるい人だ」と判断が分かれる時はもちろん、自分の中に何かしらの「判断」が生じたとしても、わざわざそれを「閉じていない世界」に向かって口にしてはいけないのかも、ということ。口にして良いのは「閉じた世界」の中においてであって、インターネットはまったく閉じていない。こうしてこれを書いている僕でさえ、やはり「閉じていない世界」に声を発しているのだから、救いがないですが、まぁ、ほとんど誰も見ないから許してください。

 あーあ、昔の田村ゆかりさんの私設サイトのBBSが懐かしい。

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