第264話 SFアイディア その2

 今回は「その一」から少し発展させたアイディアのお話。

 これは難しい要素ですが「知性」とは何だろう。人間には人間としての「知性」があるし、例えば犬や猫にもそれに近いものはある。食べるものを手に入れたり、寝床を整えたり。あるいは繁殖したり。声で意思疎通したり、鳴き声で何らかの情報を交換するのも近い要素がある。

 なら、「機械」に「知性」は宿るのか?

 現代の機械は、人語を読み取ることができる。指令を認識して、それに反応する。これは、人間と人間の交流とどう違うのだろう?

 まず、人間同士のコミュニケーションには、終わりがないようには見て取れる。つまり死ぬまで、何があっても、言葉を向け合うことをやめることはできない。その部分は、機械が行う「応答」とは違う。

 では、例えばツイッターやアマゾンで、おすすめのツイートや商品を押し付けてくるのは、ある意味ではこれまでにあった「人間→機械」の一方通行の指令ではなく、「機械→人間」というベクトルが発生している。これはもしや、機械がもっと巧妙に主張し始めると、人間と機械の間で何らかのやりとりが成立し、人間同士のやりとりと大差なくなるのかもしれない。

 こうなると、人間を人間たらしめている要素がまた一つ減ることになる。

 感情というものが人間や動物にはある。しかしこれは「外見上」そう見えるだけとも言える。感情は内に本体があり、外部に行動その他で発現するのは一部に過ぎない。そして他人の内を知ることができないので、感情の有無は、「外見」からの希望的観測にも思える。なら機械が真似ることはできるはすだが、この「真似」が考えてみると実は恐ろしい。

 例えば怒った人が皿を叩き割るとする。じゃあ、機械が皿を叩き割った時、機械は怒っているのか。衝動ではなく、怒っていると表明する単純な行為なのか。つまり、感情とは、何らかの衝動が伴っているらしい。らしいけど、機械の行動に感情が伴うかは、判断しづらい。仮に機械が衝動に突き動かされても、それは機械の暴走として処理されそうな気がする。となると、人間が激情したり号泣するのは、暴走ということか?

 例えば人間の子どもは親の真似をする。そこに「個体」としての「自身」があるかないかはわからない。映画「イノセンス」に似た話があった。それはそうと、子どもが親の真似をしたり、メディアの真似をすると、その人間の「個性」は、本来的なものとずれるのか、それともズレとは成長や経験の一側面で、本来的な「個性」は変化していないということなのか。では、機械が人間の真似をし始めたら、「機械である」以外に、人間との違いはないのか? 人間は無限に個性があり、では、機械が模倣する型は無限にあることになる。

 難点となるのは、機械が機械的に情報を記録するのに対し、人間は生身に記憶していく。ここが全く違うので、機械と人間は分離できる。しかし、肉を記録装置にできれば、一つのハードルはクリアされる。だろうか?

 そのうちに人間的「知性」と機械的「知性」は、かなり違いが見えづらくなりそう。何より大きいのは、人間が機械に「任せる」ことを当たり前としたので、人間は部分的に、機械を「認めて」いるということか。何を認めているかと言えば、うーん、「対等な立場」だろうか。

 このテーマはまた掘り下げたい。

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