第262話 チャンバラへの欲求
今回はちょっとしたメモのようなもの。
大河ドラマを毎年見ているのですが、やはり僕もチャンバラを書きたいな、と思う。
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、義経の描写がすごく不思議で、「一人の有能な指揮官」を鎌倉方がすごく警戒する。
これはなんというか、おそらく中世的な価値観の表出を描いていると思われる。現代的な考えだと、仮に指揮官が有能でも、その指揮下の兵隊に倍する数でぶつかっていって撃破することは可能、と考えそう。
この辺りに僕の中でのチャンバラとの関係があって、チャンバラとはつまり、一対一が基本で、数の要素を排除できる。数の要素を排除できると、才能や、個人の技能が描ける。もちろん、これを逆にして、超天才剣士をチンピラの集団で押し潰す、みたいな描写もできるけど、チャンバラにおいては天才が勝つのがお約束。実際的には「剣客商売」における「十番斬り」とかかな。
これはドラマでもよく描かれるけど、新撰組が池田屋において、かなりな小勢で切り込んで行って、しかし相手を滅多切りにして行くわけだけど、その新撰組も初期段階で芹沢鴨を暗殺する時、夜に、おそらく酒を飲んでいる芹沢を、複数人で暗殺しているわけで、そんなところにもチャンバラにおける面白さがある。酒を飲んで不覚を取る、というのは、間抜けと言えば間抜けだけど、なんか変な気風の良さがあるように見える。卑怯な暗殺も、全く不当な悪事でありながら、組織のためとかになると、必要悪のようになり、何故かそれなりの評価というか、認識になる。池田屋に関してはある種の奇跡に見える一方、それはまったくの偶然とか超幸運ではなくて、比較すると起こっても不思議はない展開でもある。狭い室内とかがその要素だと思われる。あとは個人の技量もあるだろうけど、個人の技量で勝ちました、は現実的な評価より、チャンバラとしての面白さからくる願望かな、と僕は感じます。
僕がチャンバラが好きだと思うのは、非現実的な「最強の技」をどう描くかの自由度が高いところです。多勢に無勢だとか、経験の多寡だとか、技の相性、その場面での偶然、いろんな切り口で描写できる。それらが非現実的でも良いのが、チャンバラのいいところ。まぁ、人によっては「いやいや、それはあり得ないよ」と指摘するかもしれないけど、大半の人は「義経、恐るべし」みたいな素朴な感覚で読んでくれると思う。むしろチャンバラを読みたい人は、そんな風に楽しめる人であろう、とも思う。
しかし、池波正太郎さんの、秋山小兵衛、六十歳にチャンバラをやらせるのは、すごい豪速球だ。これに勝てるチャンバラはありそうもないな。
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