第258話 ニホンゴムズカシイ……

 たまたま知った二つの場面について、ふと考えてみた「言葉」というものの私感が今回のお話。

 先日、大相撲のラジオ中継を聞いている時、アナウンサーが面白い表現をしていた。貴景勝の話になった時、「頭から当たっていく取り口が、出せないのか、出ないのか、どちらなのか」ということを口にした。

 これは日本語として難しい。言葉を付け足せば、怪我などでできないのか、それとも不調でできるはずなのにできないのか、ということですが、何とも難しい。

 つい少し前、乃木坂46のライブがあって、ツイッター上で、コールの問題について触れている人が何人かいた。声が漏れてしまうのは「歓声」であって、コールとは違う、という表現です。で、ここで問題になったのが、勢いのままにコールをしてしまうのを、防ぐにはどう表現するか、みたいなところに落ち着いてしまうけど、さて、どんな表現で「コール禁止」を周知できるか。

 日本語における曖昧さを極端に排除しなければ、説得力がない、ということになってしまうと、これは日本語表現が変質してしまいそうな気がする。例を挙げれば、微笑、薄ら笑いは何かが違う。苦笑と失笑はやはり違う。では何が違うか。それは細かく表現はできない。言葉っていうのはあやふやで、形が無いし、数字でもない。憤怒と激怒、激発と激昂、このように言葉は様々にある。何らかのシーン、会議か何かでざわついた時、「お静かに!」とか「静粛に!」とか、大声で訴える人がいる。では、「黙れ!」とか「口を閉じろ!」とかでも同じ意味として作用するけど、これはおそらく言葉を発する人の立場や、その場の性質によると思われる。

 何かを訴える時にどんな言葉を選ぶのかは自由だけど、選べない言葉、相応しくない言葉はあるらしい。ただ僕が見ている限りでは、選ばれた言葉は柔らかく、優しい一方で、弱く、力がない。だからともすると訴えている内容が伝わらなかったり、無視されたりする。かと言って、高圧的になったり、強制するような言葉選びが正しいわけではない。言葉というものは発する側よりも、受け取る側にこそ読み取ることを求められるものだと思う。それは表面から読み取るのと同時に、その奥にあるものを読み取る能力のことで、簡単ではない。だからおそらく、言葉は単純になる一方で、細かな違い、感覚でしか捉えられない部分を表現するために、ややこしい表現が出現したと思われる。

 最後に脱線しますが、ずっと前に、一部のアニソン関係のイベントで「MIXは禁止」というお触れが出たこともある。これはライブイベントをある種の芸術、表現として見た時、観客の行き過ぎた行為がそれを壊すように見えたと思われる。もしくは他の客への迷惑になる、というだけだったのかな。

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