第251話 現実と創作が交錯する時代
今回は今を生きる人がどうしても直面するだろう話。
一年くらい前に書いた物語があって、それが異世界ファンタジーで、モンスターと戦争状態にある話です。それをどうしたら良いのか、今、僕はすごく困っている。
それは、現実に「戦争」が出現したからです。
考えすぎかもしれませんが、現実世界で人が亡くなっていく時代にあって、創作の中で人が死ぬのを描くのが、どこかズレている気がするし、創作が現実に打ち勝てない、というような感覚がつきまとっている。
ウクライナやミャンマー、アフガニスタン、あるいは新疆ウイグル自治区とか、そういうところで人が命を奪われたり、奪ったりしているという現実があるわけで、それを前にして創作の中で「死」や「戦争」をどんな風に描いても説得力が足りない気がする。生半可な創作では虚しい気がしてしまう。
もちろん、創作は創作、ということは言えるですが、創作には現実に根ざしているという要素が必要かもしれないと思ったりする。現代性という奴だろうか? いや、よく分からない。感覚的なものです。
この錯覚なのか、混乱なのかが起こる理由の一つは、現実の戦争だとしても、僕はそれをテレビの中でしか見ることができない、ということが言える。映画やドラマなどと一緒に提示されてしまって、そこに創作と現実の同列化が自然発生してしまっている感覚がある。実際に人が亡くなっていても、百パーセントの現実、実感が伴わない。手に取るように「現実」を受け取れていない。
これと似た感覚があったのが、東日本大震災の時で、大津波で何もかもが無くなってしまった場所の映像をテレビで何度も見たけど、それを僕が現実として受け取れたかは、ずっとわからない。僕はあの時も、その後も、すぐ目と鼻の先に現実があるのに、その現実を確かめには行っていない。ほんの一日の移動で現場に行けた。でも行かなかった。それが、被災地は観光地ではない、というような遠慮から来ているのか、ただの怠慢かは、僕自身にもわからない。答えは出ない。
創作の中で人が死んでしまう時、創作の中の死と、現実の中での本当の死と、どんなふうに折り合いをつけるべきか、ということが急に大きな課題になった気がする。2022年において、死も戦争も、創作の中だけのもの、自由に描けるものではなくなった、と僕は思っている。では、どう描けば良いか、が分からない。まったく分からない。
悔しい、というか、苦しい……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます