第249話 本質が見えた気がした
今回はたまに感じる「本質」らしきもののお話。
ここのところ、Eテレでアニメ「プラネテス」の再放送を見ているんですけど、「物語」って、ジャンルとか世界観とか設定よりも先に来るものがあるんじゃないか、と思った。
その「先に来るもの」は「ドラマ」と表現するしかないんですが、言葉にならない要素です。ものすごく大きなところで見ていくと、「日常」が個性的でも没個性でも「ドラマ」があって、物語を作るのは「ドラマ」を設計すること、と思ったりする。物語が受けるか受けないかは、「ドラマ」が受けるか受けないか、となってしまう。設定が生きるのも「ドラマ」の部品になるからでは? と思われる。ミステリのトリックもそんな感じかも。
例えば「成長」もある種の「ドラマ」なんですが、「バトル」が「ドラマ」かと言えば、どことなく「バトル」はその描写の裏か、それによる変化に「ドラマ」が隠されている、というように見える。僕には難しいのは、アクションの描写にどれだけ力を入れても、それはただの描写で、「ドラマ」ではない。このドラマ作りが上手い人が、強い人なんだろうなぁ。
しかし「プラネテス」は良い。人間関係の変化で、非常にうまくドラマが作られている。原作とアニメはだいぶ違いますが、原作には原作の良さがあって、アニメにはアニメの良さがある。オススメです。
僕もドラマを作りたいものですが、なかなかコツがわからない。長い期間を描けるならなんとかなりそうだけど、さて、どうだろう。これが大人が主人公だったりすると、数年という期間をねじ込めるんですが、十代が主人公の学園ものだととにかく使える時間が短い。まぁ、僕が信奉する三雲岳斗さんは「レベリオン」や「ランブルフィッシュ」でそれをやったし、甲田学人さんも「Missing」でそれをやった。桜庭一樹さんも「Gosick」でやっぱりやったし、米澤穂信さんは古典部シリーズを現在進行形でやっている。この辺りの能力はどうやったら身につくんだろう? まったくわからない。
一つだけありそうなのは、人間の成長や変化をどう認識しているか、という部分はあるかも。例えばなんでもない日の一つの出来事で劇的に変わる、ということを受け入れられるかどうか、ということです。ケースバイケースですが、うまく設計されたドラマには激変を補強して、自然な現象に見せる力があるんじゃないか。ただ、叙述トリックのようにはいかない気もする。理屈ではなくて、感覚的な同意が読んでいる人の中に起きないといけない。これは難しい。
何にせよ、「プラネテス」の説得力は結構、凄い。やや強引ですけど、許容範囲。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます