第248話 背筋が凍るほどの「センス」
今回は一人の人が持つ「センス」の話。
僕は永野護さんの漫画「ファイブスター物語」のファンで、ここのところそれが連載されているアニメ雑誌「New-type」を毎月、買ってます。
その雑誌の中にエッセイのコーナーがあって、アニメにまつわるクリエイターの方が連載しているのですが、その中の一つに坂本真綾さんの「満腹論」というものがある。
僕が坂本真綾さんを知ったのはだいぶ昔ですが、初期の作品、アルバムで言えば「Lucy」より前はリアルタイムではありません。なので、後になって「I.D.」の伝説に触れるわけです。
僕が十五歳の時、何をしていただろう、と思い返すと、ただのど田舎の中学生だった。パソコンが欲しいと思いながら、小さなメモに文章を手で書いていたけど、遊びの中でも下の下の内容だったと思う。本を読むとしてもライトノベルだけで、音楽もまだまだ何も知らないに等しかった。
だから、坂本真綾という人は、別の世界の住人のような「センス」を同じような年頃で持っていたことになる。
もちろん、他のジャンルでもそういう人はいて、綿矢りささんはやはり十代で直木賞を取ったし、将棋でも中学生のプロ棋士がごく少ないながら存在して、十代でプロになる人はやはりいる。スポーツでも、高卒ルーキーで活躍するプロ野球選手がいる。体操やフィギュアスケートでも早熟の天才はいる。
僕が音楽というものの力に気づいたのが高校生の頃だとしても、その時には坂本真綾さんは歌って、歌詞を書いているわけで、この差には愕然とする。才能というものは確かにあるけれど、やはり住む世界が違う。
僕は「文章を書くのにインプットは必要」と思う一方で、では「インプット」とは何か、となると、それは文章である必要はない。アニメでも実写ドラマでも、マンガでも音楽でも良い。写真でも良いかもしれないし、環境映像でさえ何かの力があるかも知れない。要点は「切り取り方」にあるのでは。
そんな適当なことを思ってる日々の中で、文章の妙、みたいなものを持つ作家が確かにいて、そういう作家に出会っていったのは十代も終わろうか、という辺りです。そこには確かに「センス」があって、個性とは少し違うんですが、うーん、なんで言えばいいか……。
坂本真綾さんが「強がることと、甘えることは、結局、少しも変わらない」と歌った時、坂本真綾さんの中に何があったのかは、想像もつかない。ただ、それは絶対に「個性」ではないと僕は思っている。個性が働くとしても、それは言葉選びであって、何かを「切り取った」のはまさに「センス」なのでは。
さて、2022年5月号の「New-type」に掲載の「満腹論」の中で、坂本真綾さんが描き出した場面は、理屈では分かるけど、何か、刃物のようなものが見え隠れする。
その見えない刃物を研ぎ澄ますことが、僕にも必要だな、と自然と思えました。
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