第229話 「成功体験」は薬なのか、毒なのか
今回は個人的な雑感の話。
まず第一に、僕は物語を書いている中で、成功とまでは言えなくても、幸運に恵まれたことがある。第二にラジオに関しても、メールを送る立場まで想像を超える恩恵に恵まれた時もあった。
前もどこかで書きましたが、僕は「過去の栄光」という奴は非常に重要で、これがある人は恵まれているし、これを大事にする、支えにする人を蔑視したりマイナスに見てる人は、何も成していない、と見るようになった。僕のそばにいた人がそんな感じで、尊敬できなかったので。
さて、この成功体験は、ほぼ間違いなく薬になる。なるけど、僕が将棋を指していて感じるのは、成功というものが結論に過ぎない、ということ。将棋は相手の玉を詰ますのだから、勝ち負けがある。勝つとしても、例えば相手のミスに乗じた場面とか、最後に鮮やかな手順で詰ました、というあたりが頭の中に残る。プロはもっと細かく検討するでしょうけど、僕はそう言う、簡単なハイライトに自分の勝利を重ねて見る。
ただ、将棋を指していて、いつも同じ形になる、と言うことはないし、むしろ僕が簡単なミスをする場面が多い。何故、間違えるのか? それは勝利に酔っているからです。
ラジオでも似た場面がある。とある番組で毎週のように読まれていて、その中で投稿する時、無意識に安全そうな、そして自然と出てくる文章を書いて送ってしまうと、それは読まれない。これもやっぱり、今までの才能に酔ってるし、実際には知恵を捻る場面で手抜きしている。こんなもんでも良かろう、と。
文章を書くときはそんな手抜きはやりようもないのですが、なかなか、実際はどうか。
成功体験はほぼ間違いなく、強い自信を伴うし、まだまだ出来る! と拍車をかけることになる。それがいつの間にか、体を縛り、思考を硬直させ、何もできないところまで落ちてしまうとなると、これは苦しい。
僕は将棋のアプリで人間と指す以外、極力、AIとは指さないようにした。それは弱いAIに圧勝しても愉悦感はあっても、成長とは程遠い。調子に乗って、わからなくなる。この成功体験は、本来的な成功体験とは違う。
毒の成功体験です。
ラジオなんかでもこの手の勘違いの成功体験が僕の中にはある。どこかで細部を適当にしてしまい、メールがふっつりと読まれなくなる。
結局、成功は一瞬のことで、次も、その次も成功するためには、ひたすら学習、なんでしょうね。そして、心を折らないこと。
まぐれ当たりでも、成功は成功です。
ただいつかは色褪せてしまう。記録からも記憶からも。最後に残るのは昔話なのかも。
昔話が残されるだけ、マシなのかな。
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