第224話 暴走機関車
まったく私的な話。いや、いつもか。
なんというか、僕はどことなく暴走機関車じみたところがあるな、と最近、気づいてしまった。めちゃくちゃ書きまくったり、ひたすら読んだり、将棋とか音楽とか、ものすごく極端だ。
それが悪いとは思わないし、別に顧みたりもしないんだけど(この文章こそ顧みてる疑惑)、もっとバランス良く、とは思わなくもないでいる。
まだ実感するには早い気がするけど、時間は無限ではないし、体力も有限な以上、どこかで調整しないと、本当にやりたいことができなくなるのでは。では、本当にやりたいこととは何か? と問われると、これはさっぱり分からない。
ただ、どう頑張っても戻れないのが時間の流れだとはやっと分かってきた。僕が将棋を初めて指したのは小学二年生か三年生の頃だったけど、つまりタイミング的には異常な天才たちと比べて明らかに出遅れてはいない。なので、もしかしたら、僕が最適な環境で、最適な学習を受ければ、プロ棋士は確実に無理でもアマ初段にはなれたかもしれない。でも僕は環境は傍に置くとしても、学習はしなかった。この過去の無為な時間は、今から取り戻そうと思っても取り戻せない。ただし、例えば文章を書く時間や本を読む時間、テレビを見る時間、ジョギングをする時間、こういう全てを将棋に振り向ければ、今からでもアマ初段にはなれる気もする。その可能性はたった今、僕が文章を書き、本を読み、テレビを見て、そこらの道を走っている間に確実に失われている。
ジョギングもそう。一応、コンスタントに走ってるけど、例えば距離やペースを調整したりすれば、楽にハーフマラソンを走れる体になるのかもしれない。でも僕はそこまで真剣にはやっていない。ここでも確実に、着実に可能性は消えていく。
この、あり得たかもしれない未来を不意にしているのは僕自身で、それは、最適な暴走機関車になりきれていないからでは、と思う。本当に一つだけを見て、ひたすら突き進めば、きっと誰もが何者かにはなれる。でも、一つに的を絞って、そこしか見ずに、一切合切を顧みず、打ち込める人がどれだけいるだろうか、とも思う。
これは全くの冗談ですが、漫画「ナルト」の中で、「努力するというのも才能」というような表現があり、実在する僕の友人も同じことを知ってか知らずか口走っていた。なんというか、努力するのが才能というよりは、努力し続けるのが才能だし、そこまで掘り下げちゃうと、本当の才能は「タフさ」みたいになりそう。どんな挫折、どんな苦痛、どんな苦悩にも耐えられる、というのが「続ける」の意味するところだし、続かない努力はやや弱いのでは。
僕はまだまだ余計なものを抱えすぎて、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。その代わり、その時々で本気で走って、目標に辿り着かないどころか遥か手前で派手に転んで、それでうんざりしていることが多いけど、でも、また別の目標が見えるので走り出してしまうし、そうやっていつまでも倒れていないことになる。それだけは良いことなのでは。
そう、一つしか選ばなかった人は、本当に先へ進めなくなって、道が途切れた時、新しい道を探すしかない。
どちらが幸福なのかは、人によって違うし、どちらの立場でもふとした時に、別のやり方が羨ましくなるのでは。
この辺りも、人生はやり直せない、という感じではある。
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