第221話 世界統一は何と引き換えだろう

 今回はいい加減な世界観についての暴論です。

 ロシアがウクライナに実質的に侵攻したようですが、この世界が東西に分かれているのが、いつの時代か統一されるとして、では統一されるのが果たして正しいか、というのが僕の中では、大きな謎。

 これはすごく断片的ですが、NHKの特番で中国共産党についてのシリーズがあって、その中で毛沢東は「階級闘争」を国民に呼びかけた、というんです。これが最終的には文化大革命という大惨事になるんですが、共産主義というのか、その本質とやや離れている印象を受ける。マルクスが唱えた説はおそらく、階級が無くなる、というものを描いていたはずですから。

 では、資本主義において「階級闘争」、つまり革命が起こらないのは何故か、というのは社会学者が研究してますけど、僕の感覚だと、「階級」は表に裏にあるけれど、「闘争」が起こらないだけ、なんですよね。この「階級」が複雑で、国内においても細かく階級があるはずですが、それぞれがそれぞれの立場に満足すればきっと問題はない。あるいは、不満を同調させないとか、そもそも不満を表明させないとか、あると思います。でもこれは不幸でも何でもない。むしろ、全員が等しく富んだ社会は、おそらく未来永劫、生まれないし、存在しない。マルクス、あなたの夢は夢のままなんだ……。

 むしろ、「階級」は名前を変えて、国と国、思想と思想の違いになっているように見える。

 さて、では中国共産党が「階級闘争」を今も意識していると、どうなるんだろう。まず、上の階級は下の階級から何かしらを取り上げて、下の階級は上に立とうと努力する、というモデルで発展するはず。では、共産党が治る中国という「階級」とは違う「階級」の資本主義国の人間はこの「闘争」において、どんな立場になるんだろう? 逆に資本主義社会の人々は、共産圏の人をどんな風に見るのか?

 すごく怖いことに、この世界は大まかに、二つの「階層」に分かれていて、Aから見るとBは下で、Bから見るとAは下、という捩れが生じているように僕には見える。これが、Aが勝者になっても、Bが勝者になっても、相手が破滅するようなイメージしか持てなくて、世界が統一されるということが、繁栄ではなく、とんでもなく巨大な犠牲を意味するのでは? と思ってしまう。

 僕が一番いいと思うのは、のらりくらり、ちょっとぶつかったり、次には握手したり、ちょっとちょっかいを出して、また握手して、みたいな、付かず離れずの状態。しかしこれも日本という特殊な環境による発想なんだろうなぁ、とも思う。身近に違うイデオロギーの持ち主や、違う言語の持ち主、違う宗教の信者がいないというのは、非常に安全で安定しているけど、世界の中では極端なほど、奇跡的な状態だとしみじみ感じました。

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