第220話 アイドル界隈の錯覚?
今回はアイドルについての話。
乃木坂46に新しく五期生が加わって、その中の一人がいきなり新曲のセンターになりました。中西アルノさんという方で、僕としては新曲も好きだし、頑張れ! もっと頑張れ! 輝け! という気持ちです。
で、ネット界隈を見ると、何故か批判的な場面ばかりがあって、うーん、僕にはあまり理解できなかった。
例えば新曲が「乃木坂らしくない」という主張とか、「まるで欅坂」とか、そんな感じで、僕の中ではだいぶ燻る。
この議論の一つの焦点が「欅坂46とは何だったのか」という部分で、自然と「平手友梨奈」という名前が引き合いに出される。僕が思ったのは、平手友梨奈さんの「かけがえのない世界」のMVの中で彼女が笑ってるんだから、もう過去は忘れようよ、ということ。
こういうことを言うと、「平手友梨奈を追い詰めた運営を許すのか」とか、妙な展開になりそうで、これはなんというか、消費者という受け手と、演者という作り手の立場がこんがらがる。僕たちはどこまで行っても消費者でいるしかない。例えばCDを百枚買っても、千枚買っても、受け手でいるしかない。全国ツアーに全部参加しても、やっぱり受け手。何回、握手会に参加しても、どこまでも受け手。僕はアイドル声優のラジオにガチガチにメールして、あるいは僕のラジオネームを覚えてる演者がいるかもしれないけど、やっぱり僕は受け手でしかない。
これが「運営」を批判する虚しさで、仮に運営なる立場の人が本当に気に食わないなら、その意見の一人ならその一人の財産と時間と才能、百人なら百人の、千人なら千人のそれらをまとめて、新しいアイドルグループを作るしかない。そうした時に「都合のいいアイドル」が初めて出現して、消費者は満足する。かもしれない。でもその時、そのアイドルグループのメンバーになる女の子はどんな気持ちだろう?
乃木坂46のオーディションを受けた女の子は、きっと運営を信用して信頼して、むしろその運営の力を借りたいと思っていると思う。私がアイドルのイメージを変える! と思っている子もいるかもしれないけど、それでも乃木坂46というものに尊敬があると思う。
ファンは何でも言えるけど、受け手としての限界は必ずあると僕は思う。ファンは何も言えないわけではないけれど、見ているしかできない場面が必ずあるし、その苦しさは胸の内に秘めておかないといけないのでは。
僕から見ても、欅坂46において、平手友梨奈さんはある種の悲劇だったけど、僕が平手友梨奈さんの何かしらを肩代わりすることは少しもできないし、運営と呼ばれる人に懲罰も与えられない。それは悔しいけど、不文律でもある。受け手と作り手の間にある壁は、絶対だと思う。
これは少し論点がずれるけど、僕がラジオ番組にメールしていて感じるのは、自分の言葉がごくごく稀に、変な響き方をしてしまうことがある。演者を傷つけるような形になる。この時の申し訳なさは、身を切られるほどつらい。でもまた、メールしちゃうのが、業が深いところです。
僕は乃木坂では弓木奈於さんを推してます。前も書いたかな?
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