第205話 「差別」という表現に驚く

 今回は難しい話。

 住んでいる県の方から、新型コロナウイルスのワクチンを二回接種していない人に「お願い」というような形で、いくつかの行動の自粛を求める話があった。僕はこれをNHKのニュースで見たのですが、その項目のすぐ後に、「差別を招くのでは」という意見が県民から寄せられている、という話が放送され、愕然とした。

 正直、僕はワクチンにまつわる差別は、あまりに些事だった。それよりももっと重大な差別があるはず。それは例えば、新型コロナの陽性者が出た家庭に向けられる視線などに現れるのではないか。もちろん、表立って村八分にはしない。しかしその家庭へ向けられる視線には、それまではなかったものが含まれるのでは。

 差別というものは、あるとかないとか、そんな次元の問題ではなくなっているような気がする。差別は今、様々な場所で、様々な形で存在していて、もしかしたらまだ差別とされていない差別もあるかもしれない。

 自分のうちにある差別的な視点、発想を飼い慣らすこと、それが求められるんじゃないか。これは被差別者のことを知るというより、自己を知る、自分の行動原理の内的思想を考えるのに近いのではないか。

 それはともすると無関心だけれど、差別というものが反転した時に現れるのは、日常、当たり前であり、受け入れるだけのことにすぎない。身近にいる人が何らかの理由でワクチンを打ってないことを受け入れるのは、僕からしたらそれほど抵抗なくできる。仮にその人がワクチン否定論者で、僕にワクチンを打たさないように動き始めたら困る気もするけど、僕はワクチンを打つのを選ぶだろうし、仮にその人が僕に怒るか失望するかして去っていっても、やはりその誰かの方が間違ってる、異常だ、とは思わない。変わり者だな、という程度の余韻が残るだけじゃないか。

 日本では人種差別はほぼ存在しない。政治の場でも二つの巨大政党に二分されて、おおよその国民がそのどちらかに参加している、ということもない。そういう意味では幸せだけど、多様性を学ぶ機会は少ない。そもそも差別とは何か、解消する道筋はあるのか、そういうノウハウはあまりないように見える。

 僕が小学生の時、教室に知的障害のある児童が一人いた。僕は自然に接しようとしたはずだけど、それが果たして何を学ぶ行為だったのか。では仮に、誰かしらが健常者の子どもたちに、知的障害者はこういう人ですよ、と見せるために教室に紛れ込ませたのなら、それはおそらく、倫理観が欠如している。

 差別という問題は、等質、同等の間では生じず、差別が起こるのは何かしらの齟齬から、集団が二つなり三つなりに分かれることから始まるでは。でも本来は無数の集団は近づいたり離れたり、激しく衝突することはほとんどない。

 ワクチンの接種の有無が差別を生んでしまった時、悲しむ人がいるのは僕も悲しい。しかしこの世界では、今も無数の差別が当事者だけが知る場所で進行している。

 そこにはメディアは注目しない。

 メディアは注目を引くことしかしない。それも新鮮な情報をまず発表して、鮮度が落ちれば忘れる。これもまたある種の差別かもしれない。知りたいものは、新しいものに限らない。古いことが知りたい、という人もいる。

 メディアの情報発信は。まだ個人に究極的にコミットできない。それが成るかどうかはある種の分水嶺を幻視させる。

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