第204話 個人主義者の憂鬱
今回は極めて極めて、極めて僕の個人的な話。
個人主義というものがあるようで、その存在は自然と僕に馴染んでいるけれど、頻繁に僕は周囲から感じる視線というか、批判のようなものを意識する。これが被害妄想なのか、というと、少し違う気がして、もっと根深い心に刻まれた傷なのでは、と思っている。
僕の育った家庭は家父長制が強力な、言わば「ファシストの家庭」だった。父が全てを統一し、家族は何か大きなものを共有して、一糸乱れぬ存在としてあった。
僕がこのことに気づいたのはだいぶ大人になってからで、ある時、親戚が訪ねてきて、その一家が二つの班に分かれて行動し始めた時、それが許されるのか、と最初は恐ろしくなり、次に僕の方がおかしいと分かった。
その親戚はそもそも人数が多い(夫婦の下に四人の子供がいる!)ので、家族旅行もほとんどなく、世間話のなかで僕の育った家を「家族旅行に毎年行けて羨ましい」みたいなことを言われるけれど、僕が体験した旅行は、ただ父の旅行に同伴し、父を満足させるためにある、歪んだ旅行だった。どこへ行っても両親と僕と妹は一塊で、どこにも自由がなく、結束を表に裏に強制されていた。そう今ならわかる。
僕はきっと、根っからの個人主義者で、一人でいると非常に落ち着く。でも何故か、それが間違っている、誰にも迷惑をかけてなくても批判されるような気がするのは、明らかに過去からの声だと思う。僕という人間はファシストの家庭という型の中で育って、いざ型から抜け出しても、もう手足を広げることはできない。
最後の抵抗というか、ある種の真理のように感じているのは、家庭というものは不幸を作り出す装置で、子供を作ることは不幸な人間を生み出すことではないか、という発想で、きっと世間の多くの人はそんなことは思わないし、考えもしないと思う。僕は自分の他に、もしかしたら誰も求めていないのかもしれない。個人主義が行きつくと、そうなってしまうかと思うと、この思想はあまり有意義ではないし、極めて小さい範囲に何かを縛り付け、圧迫するようでもある。でも、あの小さな独裁国家もまた、極端なところに個人を圧迫して、様々な矯正、強制を行なったのは間違いない、と僕はやっぱり思っている。
僕が今、生活している環境は、あまり個人主義的ではなく、あまり居心地は良くない。僕が人生の中で最も楽だったのは、学生時代のワンルームで、町内会もないし、周りどころか隣の部屋に誰が住んでいるのか、男か女かすら、何も知らない環境だった。もちろん、僕を気にする人が一人もいない。
ちょっと余談ではあるけれど、僕はその頃、近くのターミナル駅で、コンコースを流れていく人の波に紛れる瞬間が好きだった。あれ? そうやって他人を求めるのは、あまり個人主義的ではないのか? いや、僕が言いたいのは、社会が個人の融合物ではなく、個人の集団であることなんですが、分かりますか?
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