第202話 知っていそうに見える人たち

 今回は身近で起こった、変な歪みの話。

 祖母に新型コロナのワクチン接種の申し込みの必要があり、さて、どうするかというところですが、祖母が何故か妹(僕からすれば大叔母)に相談して、一悶着あった。

 この件で分かったのは、僕の中では大叔母は現代人だ、という錯覚があったこと。祖母は非現代的で、ガラケーも使えなければ、テレビのデータ放送も知らないのですが、大叔母は僕の中ではそれらと正反対に見えていた。しかしワクチンの予約に関しては、「これ(QRコード)をスマホで写せばできる」と輪郭しか分からないようで、例えば何らかのサイトにアクセスして、そこでの登録にメールアドレスが必要だとか、そんなもっと具体的にどんな手順で登録していくかは言わないし、そもそも大叔母はガラケーを使っていて、スマホではない。どうやら家族に代わりにやってもらい、何が行われたかは大叔母自身は知らないらしい。

 僕が困ったのは、誰のメールアドレスを使うかとか、僕のスマホに速度制限というものがあるのをどう説明するか、ということで、実はここに「知っている」という絶対的な壁があると思った。

 例えば地元民なら道案内ができる、道を「知っている」というのは実際には錯覚で、100%ではない。学者ならその分野について何もかもを「知っている」というのもやっぱり錯覚。学者ではなくても、小学校の先生は子どもたちからはなんでも「知っている」ように見えても、きっと全ては知らない。若い人からすれば、老人は知識を蓄えているように見えても、実際はそこまでではない。むしろ僕たちは「現代」に必死にしがみついて、食い下がっていかないと、何も「知らない」老人になってしまう。

 本当はこの疑問は全てに向けられるはずで、両親でさえ、何もかもを「知っている」ように見えても、本当は知らないことが多いし、では、誰が「知っている」のかを考えてみると、実はそんな人はいない。知識も知恵も分割されて情報か知識か記憶として保存されていて、そこから必要なものを探して、学ぶことになる。これを怠ってしまうと、どこかで「現代」との隔絶が起こって、そこはもうどうやっても渡れない深い溝になる。我が家がインターネット回線が敷かれていないどころか、電話がまだ黒電話であるのが、まさにこれ。

 それにしても相対評価というのは怖いと本当に思った。誰かと比べれば「知っている」ように見えても、実際には「知らない」となったら、どこかで何かを間違えそう。そう、政治家が何を「知っている」のか、とか、メディアが何を「知っている」のか、とか、そんなことも言える。今の世の中では感染症対策がさまざまに言われるけど、偉い政治家や偉い学者が「知っている」ことと、僕たち、普通の民衆が「知っている」ことは、実は少し違うのでは。そのズレが生じるのは、うーん、単純に情報が伝わる過程にあるとは思うけど、もはやそんなことは言えない情報化社会なわけで、本当に「知ろう」と思えば僕たちは必要な情報にアクセスできるはず。そうしないのは結局は自分の怠慢となるのかな。「知っている」つもりで、満足するのが怠慢なのかは、意見が割れそうだけど。

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