第201話 正しい小説という幻想

 今回は最近、何故か頭の中で唱えてしまう、変な表現の話。

 なんとなく「正しい小説」とはなんだろう、と考えることが頻繁にあります。小説といっても、ジャンルも多岐に渡るし、いろんな要素があるので一言では言えないのに、何故か「正しい小説」というものがあるような気がする。

 設定、登場人物、ストーリー、文体、そういう全てを塗りつぶせる何かが、果たして存在するのだろうか、と考えると、それはおそらくない。僕の中で印象に残ってるのは、公募の講評か何かで、一つの要素でずば抜けている、という評価があった。つまり、例えば登場人物が物凄く魅力的なら、設定の少しの矛盾はなんとかなる、という趣旨と思われる。もちろん全くのデタラメがあればダメでしょうけど。

 この「正しい」というものは、創作とか表現の場にいる人は、必ず頭をよぎると思う。評価されなければどこが悪いかを考えるし、評価されればどこが良かったのかを考えるものだと思う。そして、これは僕の感覚ですが、どこが悪いのか、どこが良いのか、容易には理解できないし、考えても答えが出ない。

 そうなるとこの世に「正しい小説」は論理的に出現しそうにないけど、そこは未来、未発見の闇の中にあるのではないか、と楽観しているところがある。自分の中にそれがあるとは思わないし、無いんだけど、誰かが発見するか、発明するのでは。

 僕はとりあえず最低限に本を読んできたけど、大抵の小説ははっきり言って完璧です。なので、その完璧ばかりの作品のさらに先にあるものが、おそらく「正しい小説」と表現せざるを得ない、何かではないか、と思ってます。

 うーん、支離滅裂なことを書いてますが、自分でもよくわからないまま、こうして文章に起こしてます。

 逆転させると、今の小説には「正しさ」がないのかというと、そういうわけではなくて、もしかしたら「正しさ」は常に更新されて、地面を掘るように進んでいるのかもしれない。穴は深くなって広くなって、次々と新しい鉱物が発見されて、でもまだ掘り尽くされてはいない。

 どんな鉱物でも、それがどんなに磨かれても、あるいはそれが「美しい」とは気づかれないこともあって、どこかに土や石と一緒に打ち捨てられて消えている可能性もある。それは「正しい小説」が失われるようで、失われる理由が、知られることがなかった、ではちょっと寂しい気もします。それでもこれまでの歴史の中で、計り知れないほど多くのものが失われたはずで、それが悲しみと同時に希望に思えるのが不思議。今までにそれだけの「美しさ」があったのなら、これからもまた「美しさ」は現れるだろう、という希望があるのでは。

 とにかく読んで書いて、日々を生きるしかない。

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