第198話 同じ言葉の違う世界
今回はふと感じた文章の話。
たまたま書店で雑誌「Number」が将棋特集なのを発見して、即購入してちょっとずつ読んでます。表紙は藤井聡太さんで、この雑誌では過去に二回、やはり将棋特集がありました。
さて、そこで将棋についての文章を読んでいると、はっきり言って興奮しますね。臨場感というか、迫ってくるものがある。
この興奮が、小説を読んでいるときにある興奮とはまるで違って、同じ文章表現なのに、ここまで違うかというくらい違う。
小説は読者が一から頭の中に世界や人物を描き出し、動かし、生きた存在にしなくてはいけないですが、僕が接した将棋に関する文章は、少なくともテーマになる対局や棋士は実在する。実在するけど、一局の中で対局している二人が何を考えているか、盤を挟んでない時、後から対局を振り返った時、何をどこまで検討し、どう解釈したかは、やっぱりわからない。
僕が将棋にまつわる文章から感じ取るのは、小説には存在しない「リアルさ」なのかもしれない。
ちょっと話が脱線しますが、本当に昔、たまたま国技館に行った時、豊ノ島という力士と遭遇した。というのも、僕はただ相撲協会が販売するカレンダーを買いに行っただけなのに、それが力士会という関取の会合の日とぶつかっていたのです。豊ノ島という力士は体重はありましたが、上背がなくて、170cmくらいだったと思いますが、僕は不意に目の前に現れた豊ノ島をすぐに誰か理解できず、立派な羽織袴の人だった、と考えてから、さっきの人は豊ノ島じゃないか? と理解が追いついた。僕はテレビに映る豊ノ島と現実の豊ノ島のギャップをしばらく考えましたね。あんなに小柄だったのか、とか、しかし横幅はあった、とか。
文章も映像も、きっと音声も、それぞれに表現手法があって、ある部分ではゼロから立ち上げて、ある部分では既にあるものを切り取る手法が存在するようです。雑誌の紙面の文章から、僕は将棋のプロ棋士の凄みというか、生々しいまでのリアルさを感じて、良い文章だな、と心打たれました。小説も好きだけど、こういう文章を追いかけるのも好きになれそう。どこかで探そうかなぁ。
これはあまり、なんというか、望み薄ですが、文章を勉強する一つの切り口として、物語ではない文章を読む、というのがありそうではある。それこそ、将棋指しがチェスを指すみたいに、異文化交流的に、何らかの変化は起こせると思う。起こせると思うけど、それをうまく消化して、形にしていけるかは、個々人の力量次第、かな。僕はとりあえず、最後の手段としておきます。
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