第192話 ささやか「自由」の闘争

 今回はちょっと感じたことをつらつらと。

 年末年始で移動が活発になったりしましたが、例えばそれを制限する言論があったとすると、おそらくそれは「支配」的なものになってしまって、形の上では「自由」と「支配」の対立のように見える。

 見えるけれど、これは「自由に自由をしたい意思」と「自由に制限したい意思」の対立で、突き詰めると、ある種の「自由」とある種の「自由」の対立に過ぎないのでは。

 少し前にマスクにまつわるトラブルで大怪我をして人がいたけど、マスクをつけるのもつけないのも「自由」だし、それどころからマスクをつけてない人に注意する「自由」さえある。

 これって突き詰めていくと、国際的な思想でも、資本主義を信奉するのも「自由」だし、共産主義を掲げるのも「自由」、当然、資本主義を否定するのも「自由」だし、共産主義を否定するのも「自由」。さらに踏み込めば、戦争をする「自由」がどこの国にもあり、戦争を否定する「自由」がある。どこかと競合した時、なんとしても勝たねばならないと思う「自由」と同時に、負けてもいいという敗北主義を選ぶ「自由」もある。

 なんでも選択可能であり、その選択が守られる、というのが「自由」の本質で、これはおそらく個人主義が徹底されると、より明確になると思われる。ただその時には集団のようなものが成立しない深さまで個人主義が浸透した結果、文明が今とは大きく変質すると思われる。気がする。かすかに。

 それはともかく、これを書いている今は新型コロナの感染者が何度目かの急増を始めていて、ずっと前からこの時が来ると予言されていたことを考えると、「約束された未来」みたいなものだな、と思ったりする。多くの人が予想し、それより多くの人が考えなかったはずのないストーリーを実際に進んでしまうのは、何故なのか。それはきっと、誰が何を言っても、自分が何を想像しても、それを無視する「自由」が人間には備わっているから、ではないか。もちろん、世の中には他人が気になり、周囲が気になり、多数派の意見に従うことで個人の「自由」を捨てている人がいるけど、光の当て方を変えると、これは多数派に与することでなんらかの「自由」を得ていると思われる。精神的な自由、とか?

 ともかく、この約束された破綻のようなものは、どうやったら避けられたのだろう? 個人の「自由」を奪うことで回避できたはずもない、と思うし、集団の「自由」も大した役目を果たしたようではなく、避ける道筋はなかった、となる。そもそも、「自由」には無限の幅があり、個人も集団も、どこかでは厳しすぎ、どこかでは緩すぎた、という場面がありそう。

 破滅がやってくる、破綻がやってくると想像できても、個人レベルでも集団レベルでも徹底した行動に至らないのは、とどのつまり、人間が持つ「自由」が作用しているからかな、と思った、というのが今回のオチ。

 脱線しますが、では、SF的にありそうな、本当の「支配」とは何かといえば、「自由」が失われることで、では、どの段階で「自由」が失われるかを想像すると、人間が「自由」を忘れる時なのでは。いつの間にか「自由」がすり替わり、やがて本当の「自由」は失われる。

 例としてはわかりづらいですが、子どもの時は三千円のお小遣いでも大金に思えたし、なんでも買える! と思った人は多いはず。しかし大人になると、三千円に興奮する人は少ないし、子どもの時に感じたほどの「自由」は感じない。子どもの時と大人になってからで、「自由」はどうやら変質するらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る