第188話 情報弱者の真相のようなもの

 今回は「情報弱者」の一側面に気づいたので、その話。

 ここ数回、老人について書きましたが、さて、情報を手にするとして、それは「体感、体験したこと」と「伝わってきたもの」に分かれるような気がする。

 僕の身近な老人たちは、感染症対策がまったく緩い。これが、例えば東京とまではいかなくても、一般的な外食店で少しでも様子を見ることができれば変わってくると思う。すぐそばにいる人たちがやっていることを目の当たりにすることで、「実感」として情報を理解できる。

 しかし閉じた世界にいると、情報はメディアや噂話などで入ってくるだけになり、これはどうやら「実体験」とは階層が違うらしい。

 あまり老人の悪口ばかりも言ってられませんが、僕の母はつい最近、スマートフォンを手に入れたけど、Amazonで買い物したり、Kindle本を買ったりしようとしない。その存在は知ってるし、利便性や仕組みを僕が伝えても話を聞くだけになる。これもおそらく、実際に利用してみると「実感」として感じ取れるはずのものが、どれだけ言葉を尽くしても通じないし、育まれない。

 少し角度を変えると、僕はテキトーなSFを書いて、それが一応、カクヨムにおいて僕の作った物語で一番のPV数だけど、実は終盤ですごく困った。海王星まで行かせよう、と思ったけど、海王星ってどれくらい遠いんだ? となった。これは本で調べてそれっぽくなった。この作品では宇宙船などに人名を当てはめていったけど、ノーベル賞に限定しようか、などと思ったもののノーベル賞を取った人をほとんど知らず、半ば投げやりになった。ちなみに別の物語では、登場人物の名前に困った結果、たまたま図書館で手に取った社会学辞典みたいな本の目次にある社会学者の姓を拝借し、次にネットでHR、HMのギタリストの名前を検索し、この二つを合体させた。この物語ははっきり言ってダメだったな……。

 僕は不勉強なので、海外の偉人の名前とか知らないし、そもそも名前の付け方の法則などが頭にない。つまりこれは情報がないわけで、それもどこかで接したとしても、すり抜けてしまっている。これが「実感」に変わるとすれば、例えばアメリカに移住すると、周りにいる人はジェームズさんとか、マイケルさんとか、まぁ、そんな感じになっていやでもアメリカ的な名前のあれこれを「実感」すると思われる。

 これは言語にも当てはまると感じる。日本にいれば日本語が使えれば問題ない。しかし海外へ行けば、英語なりを使わないといけないし、その英語は僕の世代が学校で受けた文法的な英語じゃなくて、超実践的な英会話、になると思われる。学校で教わる英語より、現地で必死に身につける英語にはおそらく「実感」が伴うはず。少なくとも、学校の日本人の教師に「オーケー」などと言われるより、キッチンカーのガタイのいいスキンヘッドの兄ちゃんに「ン」と頷かれて何かしらの注文が通った時の方が、「実感」はあるのでは。

 情報弱者という立場には、情報を獲得できない、理解できない、などという側面のまた一つに、情報と現実が乖離してしまう、ということがあるかもな、という謎の感覚が今回のオチです。

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