第181話 老人から感じる、「価値」

 今回は僕の身近にある光景から連想していく、見えなかったけど、実は存在した「価値」の話。

 祖母が同居してますが、まずこの人はこれまで家でマスクすることがない。そして頻繁に友人が訪ねてきて、この友人と半メートルもない間合いで、大声で喋りながら、お茶を飲んだり何かを食べたりする。相手もマスクを顎の方へ下げたまま、特に抵抗もなく飲食する。

 一方で遠方の叔母から電話が来て、おそらく、感染症の関係で帰省したくても出来ない、という話をしているところでは「こんなご時世だから仕方ない」という返事を決まり文句のように祖母は口にする。

 祖母は昼間には新聞を読み、テレビを見て、夜にはラジオを聞いている。それだけメディアに接しているのに、感染症対策には不自然なズレがある。

 僕の感覚からすると、叔母とその亭主が訪ねてきても、リスクはそれほど変わらない。祖母は常にノーガードなので、リスクが問題になるのは、叔母とその家族が感染するか否か、という部分に集約される気がする。というか、僕は祖母はちょっとしたきっかけで感染するのでは、と思っている。

 どうやら世の中では「夜の街」や「飲食店」というワードを多用した結果、変なズレが起こった気がする。昼間でもウイルスに感染することはあるし、飲食店ではなくても感染はする。酒の提供を禁止したけど、きっとジュースでもお茶でも、同様に感染経路になると思われる。反対に、マスクや手洗いも、それで完璧に防げるわけではないけど。

 ちなみに僕が最も怖いと思っているのは「お金」で、紙幣はともかく、お釣りでもらう小銭に手で触れた後、落ち着かなくなる。でもあまりテレビでそんな話は見ない。これは僕が強迫観念に支配されているのか?

 メディアが伝えることを曲解しているかは、自分だけではわからない。きっと大勢のデータとすり合わせて、自分がどういう立場にいるか、考える必要があるけど、おそらく公の訴えは、この擦り合わせの上に余裕を持っていると思われる。後はそのメディアが取り上げたことを信じるかどうか、となるけど、そこはもはや個人の自由だし、もっと言えば、世間なんて関係ない、誰が何を言っても関係ない、というスタンスを取るのも、やっぱり個人の自由な範囲になる。

 それにしても、祖母はおそらく自然と寿命で亡くなると思われるけれど、僕としては叔母夫婦には、今、訪ねてきて欲しいと思っている。それは、叔母が自分自身や自分の家族のリスクより、実の親に会うということを選ぶ決断できるかどうかという問題もあるだろうけど、少なくとも祖母を感染させてはいけないという気遣いは、完全に空転しているように感じる。迷っている、躊躇っているのは、こうなると時間の無駄と言ってもいい。

 どんな死に方をするにせよ、死体と話をすることは出来ないわけで、生きているうちに会うことは貴重ではないかな、と僕は内心、思ってます。これは感染症の問題以前に、ネットが発達したことでも実は見え隠れはしていたんじゃないかな。僕は参加したことはないけれど、オフ会なるものは、あきらかにこの「実際に会う」ということに重きを置いて、意味や価値を見出した文化だった。

 ああ、そういえば、ラジオの公開録音も、そんな感じだったかもな。このラジオネームの人はこの人か、という感覚があった。ただ話をしてもいないし、妙な感じだった。感覚としては、ネット上のアバターに近かった。人間そのものだけど、その中にラジオネームの人の人格が入っているような。

 何が大事か、というところが問われるのがこの時代なのかも。常に無数なものが複雑怪奇な天秤のようなものを揺らし続けている世の中ですね。

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