第160話 テレビ番組の錯覚が垣間見えた場面

 今日はちょっと気づいてしまったことについて。

 まさに今、12月12日にNHK総合で、おおよそ一時間の枠で、藤井聡太と豊島将之のタイトル戦についての番組があって、なかなか面白かったですが、ちょっと、かすかに驚く場面があった。

 それは藤井が31銀打とした後、豊島が32飛車に行き、そこで藤井が22角打としたのが大胆な手、というところです。これが将棋を知っている人なら、そもそも31銀打の時点で32飛車が来ることは分かるので、つまり31銀打をする以上、何らかの手で銀を守らない限り、その銀はタダで取られてしまうのは自明。もちろん、23の地点に豊島の飛車が効かなくなるので、藤井が23飛車成とできる、というのがすぐに見えるということはあって、銀を捨てて飛車を成る、というのが、どれほどの脅威か、というのは対局者の読み次第ではあるのですが。

 僕がここを見ていて思ったのは、31銀打という手と、22角打という二手の組み合わせは確かに唸るけれど、では藤井が31銀打とした後に、豊島が32飛車としない理由がほとんどない以上、藤井の中では23飛車成と22角打以外に選べる手はないのでは? ということです。

 テレビで見ていると、あまり盤面が僕の頭にはないですが、僕の中では22角打より前に、31銀打をそもそもあまりやりたくない、やるとしても23飛車成で銀を捨てて、まぁ、例えば22竜として相手に委ねる、としてしまうとか、そんな風に適当に想像しますが、何も知らない人があの場面をいきなり見せられても、なんのこっちゃ? 何が凄いんだ? となるな、と僕は感じた。22角打が、31銀打とセットであることとか、どのようなセットであるかを、限られた番組の尺で表現するのは、かなり至難で、僕はなかなか飲み込めなかった。

 これはそもそも、将棋のルールや駒の働きなどの基礎知識がないと、理解が及ばない、そういう要素が現れている。似ている要素では、ロックバンドのギタリストがものすごい奏法を披露したとして、素人は音の連続とか指の速さに驚くかもしれないけど、ギターをやっている人とは、その奏法への理解や驚嘆が別のものになる。他にも刑事ドラマなんかでも、本当の刑事や監察医とかが見れば、現実とあまりにも乖離していて、笑っちゃう、ということもあるのでは。

 これはきっと全てのメディアで起こりますけど、難解なこと、専門的なことを、難解なまま、専門的なままには表現できない。メディアは何も知らない人に説明する性質上、ある程度の単純化が必須になる。

 僕が最近、ユニークだなと思ったのは、DJ松永さんがDJの世界大会で優勝したという感じで表現されるけど、DJが実際にはどんなことをしているのか、詳しく知ってる人はものすごく少数なんじゃないか、ということです。そうなると、「DJ松永のテクニック」を事細かに説明するより、「世界大会優勝」の方が簡単に凄さが伝わる。どれだけ凄いのかは分からなくても、凄いというのは分かる。

 ありとあらゆることが、調べれば詳細にわかるような世の中だけど、この「凄い」というところで納得してしまうと、何が凄いのか、どこが凄いのか、は、ただ流されちゃって深掘りされないままになり、結局は見えなくなるんじゃないか、と思ったりしました。

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