第151話 死んでましたから始まる、創作に関する妄想
死んでました、と言いたいところですが、生きてました、から始まる前回の解答のようなものが今回の話。
とりあえずここのところは必死に読書しながら、直しをしてました。他サイトに上げるための、一日一話更新を一年続ける企画の長編なんですが、30万字以上あって、正直、終わりません。そしてそれとはまったく別に、50万字の長編が手付かずで、もう直す気力がない。今度からは手頃な10万字で作っていこう、と固く誓いました。
前回のこのエッセイで、めちゃくちゃに荒れていて、それは「漫画」と「ライトノベル」の関係のよく分からない人の発言への反発なのですが、ちょっと考えてみると面白いことを発見した。
まずはホットな材料として、アニメとして「鬼滅の刃」を見てみたのですが、僕には不可解な点がある。それは主人公が「頑張れ俺!」みたいのことを言ったり(言うのではなく、そう思ってるのを音声にしている)、敵の攻撃に関して「○○なら××、☆☆なら**」みたいな分析というか、解説もやっぱりセリフにしている。
もう一つはマイナーな材料として、漫画としての「3月のライオン」の最新16巻の最初のエピソードを引き合いに出してみたい。この短い二話でまとまる話は、宗谷というキャラクターの掘り下げのようなもので、特に前半に注目したい。なんとこの一本で宗谷が口にするのは最後の方の祖母とのやりとりだけで、そこまでひたすら無言。
何が言いたいかというと、仮に漫画が何でもかんでも「台詞」とかにしてしまうと、それはむしろ漫画から小説的な表現に近付いているのでは、ということです。これは、登場人物の「思っていること」を、「文章」で伝えるより他に手段がない「小説的技法」だからです。考えていること、どんな気持ちでいるか、そういうものをある時にはそのまま言葉にして、ある時には別の何かを描写することで表現できる、するのが「小説」なんじゃないか。
こうなると「鬼滅の刃」は極端に小説寄りだと思う。古い例えですが、「機動戦士ガンダム」の冒頭で、アムロの有名なセリフで「コクピットだけを狙えるか?」というのがありますが、あの時、アムロが「本当にできるのか、僕は! でもここで倒さないと、みんなが危ない!」みたいなことを思ってると想像はできるけど、あれは絵がついているから、視聴者が想像することに委ねていると思われる。他にも「新世紀エヴァンゲリオン」の序盤で、最初最初には「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」は音にしてセリフになったけど、その後に脱走した碇シンジがずっと電車に乗ってたり、レイトショーの映画館でぼんやりしてる時は、まったくセリフがない。やはりここでも、絵で表現する、という分水嶺のようなものがあったと思われる。
こうなると「3月のライオン」の件のページは、非常に「漫画的」なんだけど、一方で作者の羽海野チカさんは文章での表現も巧みなので、いい作家です、と僕は強く言いたい。この「漫画的表現」における面白い材料として、「進撃の巨人」の終盤、エレンが座標に踏み込むシーンが挙げられそう。あそこでは効果音というか、擬音が描き込まれていない。つまりそれで「この場は無音、もしくは特殊な場」と表現していると思われるので、ここには漫画にもやはり「描かない」という表現があるのがうかがえる。
小説では「僕は落ち込んだ」と書くことも「僕は肩を落とすしかない」と書くこともできる。漫画でも何らかのセリフや文でそう表現できるし、例えば主人公が肩を落とす絵だけでセリフ無しでも、表現できる。アニメならBGMやその他演出で「言葉」や「声」を使わずに表現できる。
結局、現代の表現は境界線が曖昧で、アニメ的手法の小説もあれば、小説的手法の漫画やアニメもある、ということなのではないか。そしてこれは良くも悪くもなくて、ただ創作を追求している、いい創作を目指してる、ってだけのことらしい。
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