第130話 信頼関係ってあったんだなぁ、とふと思った。

 桜庭一樹さんと鴻巣友季子さんの議論で、じわじわと気付いた話をします。

 僕は少し前、カクヨムのマイページの閲覧履歴で、たまたま見てしまった、不愉快だけど、気になってしまう作品があって、強引な手法で閲覧履歴のリストから穏当に外しました。

 その時は何が不愉快なのか、どうして気になってしまうのか、それがよく分からなかったけど、やっと理解できてきた。

 不愉快の原因は、作品から作者の人格を透かし見て、作者批判になっている、というところにあるらしい。

 僕はずっと本を読んできて、小説がメインなんですが、部分的にエッセイも押さえました。名前を挙げると、桜庭一樹さん、森博嗣さん、三浦しをんさんなどは、どこか作家自身の実生活の一部を覗き見たような感じがある。

 でも、それでも作品への影響は大してなくて、すげえ面白い! となる作品もあれば、普通かな、となる作品もあって、僕の中では読者である僕、作品、作品の作者、と三つが分離している。だから例えば、森博嗣さんの作品だから面白いはず、みたいな予想を持つことはあまりなくて、その緩すぎる期待があるから、肩透かしは起こり得ない。

 この作品と作者の分離が成立するのは、僕にとっては創作における原則で、それは以前、音楽界隈のスキャンダルについて触れた時に書いた気もしますが、今回は少し焦点が違う。

 桜庭さんと鴻巣さんの議論で、あまり誰も触れないけど、作者(桜庭サイド)と読者(鴻巣サイド)で奇妙なすれ違い、誤読や解釈の問題が発生した根本に、作者と読者の間にある「信頼関係」の信用度がすれ違った、というのがあるでは、と僕は思った。これが先に書いた、カクヨム上の不快感に繋がります。

 僕が不愉快ながら見てしまう作品はエッセイで、カクヨム上にある、ある種のジャンルの作品を否定的に批評というか、批判して、こき下ろしているのですが、それが作品の奥にある作者の人格否定みたいになってしまう時、そこには作者と読者の信頼関係が消滅している現実があり、その不毛さに僕は不快になるらしい。

 僕はいろんな本を読んできたけど、例えば村上春樹さんは好きで読んでるけど、どれだけ村上春樹さんの作品の中で性に奔放な人物が描かれても、村上春樹さん自身が性に奔放とは思わない。そこには僕(読者)は作品に触れるけど、作品と村上春樹さん(作者)の間には壁がある、という構図があるっぽい。

 もちろん、読者が作品というフィルターを通して作者を見ようとすることはあるし、それもまた一つの作品の読み方、解釈なんですが、この時に作品の奥を見ようとする読者と、作品の奥にある作者の間に「信頼関係」があるように僕は思う。僕は村上春樹さんを信用しているから、村上春樹さんが変な人には見えない。この信用は周りの意見や評価もあるかもしれないけど、作品を通して形成されてもいる。

 桜庭さんは読者(不特定多数)が好意的に捉えてくれる、と読者を信頼していたけど、読者の中の一人の鴻巣さんはその通りにはならなかった。桜庭さんの信頼を裏切ったとか、鴻巣さんの読み方が間違いとか反則ではなくて、先に書いている通り、読者は作品を自在に読むし、そこから自在に作者さえも思い描くものらしい。

 ただ、作者から読者への信頼があるのと同時に、読者も作者に信頼を向ける必要があると思う。この信頼こそが「この物語とは何なのか」と探る原動力だし、作者の思いを汲み取ろうとする探索の道標ではないかな、と思った。初めて読む作家さんの本でさえ、読むうちになんらかの信頼が生まれていく気がするけど、僕の気のせいだろうか。

 カクヨムやネット上での作品を通しての作者批判は、あるいは避けて通れないのかもしれないけど、読者は作品に接する存在で、作者は基本的に読者と接しない、という形はもう無くなってしまって、新しい形での読者、作品、作者の関係性がいずれ、生まれるのかなぁ、と思わなくもない。

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