第129話 桜庭一樹さんの件に関する私見
まず、僕が、桜庭一樹さんの小説はだいぶ数を読み、特に読書エッセイの熱烈なファンである点、そして「東京ディストピア日記」を読んでいるという点を明確にしておきます。
桜庭一樹さんの中編「少女を埋める」と、それに対する鴻巣友季子さんの書評が話題になり、まずこの件に対する「誤読」に関する議論については、僕は、桜庭一樹さんが「作者の意図と違う読み方は誤読」と認識している、とは、天地がひっくり返ってもない、と確信しています。これは桜庭一樹さんの読書日記を読めばわかる。もう絶版かもしれませんが、まずはそれを通読して欲しい。あれだけの本を読んで、あれだけ文章という形で自分の感じたことを書いている人が、誤読に狭量だったり、誤読を認めない、なんてことはありえない。なので、この一件に関して桜庭一樹さんの意見が「誤読を否定している」と見えている人は、僕からすると見当違いです。
本当の問題は、「私小説」というものが時間の流れの中で失われた、失われてしまって読む側がどういう視線で物語を見て、どういう姿勢でそれを理解すればいいか、が忘れ去られてしまったのではないか、ということではないか、と思います。
桜庭一樹さんの「東京ディストピア日記」を読んだ後に「少女を埋める」を読むと、この二つが連なってると考えるのですが、前者はエッセイで、後者は私小説で、では、何が両者の間で違うのかは、僕にはうまく説明できない。そもそも私小説という表現方法が、僕の中にはない。現実を丸ごと物語に置き換えるのは、小説なのか、ちょっとわからない。これはおそらく僕の中で「純文学」がわからないのと、「大衆小説」と「エンタメ小説」の何が違うのか、分からないのに似ている。桜庭一樹さんの、「私小説」を書く、という試みは、実は受け皿があやふやになっていて、それが読書好き、市井の読書家などではなく、翻訳家のような、プロの本読みの間にも広がっていた感覚なのでは、とも思う。
この小説は私小説です、とはっきりと明言されているのに、その中に描かれていない悪意があったのでは、とされてしまったら、その悪意は、物語の中の描かれなかった要素、というだけではなく、作中と鏡写しになっている現実の誰かに悪意があった、とされてしまう。これがどこまで許容されるのか。小説として発表した以上、どんな風に読まれても、どんなふうに解釈されても仕方ない、という意見もありますが、これはフィクションではない、と遠回しにはっきりされている以上、どこかで配慮が必要なのではないか。もちろん、作中にない悪意を推測で引っ張り出して、それがあるかのように公の場で明言されては、この問題は看過できないのは当然では。
それと僕はこの件をネットで眺めていて、意見を言うには作品を読まないといけない、ということを強く自覚しました。ネット上では誰もが意見を言えるけど、この件で「少女を埋める」を一度や二度ではなく、何回も細かく読み込んだ人の意見、というのはほとんどなかったのでは。なんだかんだと話題になった流れの中で、この無責任な意見の表出した部分が「誤読」に関する議論で、これは全てにおいて的外れな、本筋とは違う、いい加減な筋の議論だった。ちょっと嫌になる程、無関係な議論で、呆れた。桜庭一樹さんについて調べてくれよ、知ってくれよ、と正直、思った。話題になってることに相乗りしたいのは分かるけど、変な捉え方するなぁ……。
今回の件について桜庭一樹さんが主張したのは、単純に、「現実に存在する人物」に悪影響がないように、という一点だと思う。これは私小説だから発生したように見えるけど、作者が悪いのか、読者が私小説の扱い方を喪失しているのか、それはわからない。そこが一番の問題ではないかと、僕には見えます。
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