第124話 自分の業があまりに深いと感じる日

 他所のサイトですが、ネット小説大賞の一次の発表がありまして、まぁ、とりあえず1/2は通過という形なんですが、公募勢としての自分の業の深さを実感した。

 まず、公式のツイッターアカウントで通過数の後にパーセントで通過した作品の割合が出ていて、そこがなんとも、「そうそう! そういうことを考えるよね!」となった。

 カクヨムコンなどの中間→最終結果ではない公募だと、送っている側はどうしても、どれくらいの割合で通過したかを考えるんですよね。例えば一次選考だと、「全体の二割が通過か、なるほど」とか「全体の一割以下か! それは厳しい!」とか、僕は考えてしまう。これが明らかに自分の結果に対する言い訳で、全体の二割だと「まぁ、通ったのは特別じゃないな、運が良かったか」と余裕ぶったことを思ったり、落ちると「二割で落ちるとは、救いがない」と愕然としたりする。全体の一割以下が通過だと「流石に門が狭すぎるけど、作品が弱かったな。ダメ!」と自分を否定することを考えたりするけど、一方で「一割に入るのはどう考えても無理だった。僕と同様の立場の人が大勢いるし、気にするほどじゃない。気にしない、気にしない」と安堵しようとしたりもする。

 ここで割合を考えるのはきっと間違いではあるとも思っていて、審査する方は「この十本から二本くらい通過させようかな」と思わないはずで「一本しか良いのはないけど、数合わせでもう一つ通すか」もきっとない。そうなると通過する割合はただの数字で、ただのデータなんじゃないか、と思うのです。

 ただそれでも、通過が一割未満という数字を見ると、先に書いたようにどこか安心したりもするわけで、この割合のデータは絶対に間違い、不必要じゃなくて、免罪符みたいにはなる。それで何が救われるかは、自尊心、としか言えないのだけど。

 最近、ネットをうろうろしていて面白いのは、最終選考進出、という表現があって、今の若者は前向きなんだなぁ、としみじみ感じた。僕はどうしても○次落選、みたいに考えちゃうんだけど、あまりに後ろ向きすぎるのかな。多くの人がそれだけ前向きに物語を書いていて、それには本当に頭が下がります。みなさん、強いなぁ。

 僕がそもそも一次落選を延々と繰り返したがために、ちょっと、いや、かなり、だいぶ、めちゃくちゃ、途方もなく、歪んでるのかもしれない。「一次落選」では胸を張れないけど、「二次落選」なら少しは胸を張れるぞ! みたいな。だから「二次選考進出」という発想が育まれる地盤がなかった。落選が前提で、どこで落ちたか、が焦点だった。

 いやはや、業が深いというか、人格破綻者の一側面、という感じではある。

 何はともあれ、今年はこれで満足したので、来年に向けてまた、何かを書いていこう。

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