第114話 大園桃子さんの卒業で考えたこと

 乃木坂46の大園桃子さんが卒業を発表されて、芸能界からも引退、とのこと。

 少し前から、消費、というものについて考えていて、それも「人を消費する」ということをうんうん唸りながら考えていたので、今回はその話。

 最初にあったのは、力士のことなんですが、例えば勢いのある力士を応援して、その勝敗に一喜一憂する、くらいなら良いのですが、例えばその力士が大怪我して番付を下げて、テレビに映らなくなり、話も聞こえなくなった時、どうしたら良いのだろう? 本当なら、というのも変ですが、本当に気になるなら部屋に問い合わせたり、見舞いに行ったりするものかもしれませんが、きっとそんなことをする人はほとんどいない。ただ「最近見ないな」とか思って、そのうちに忘れる。これが「人を消費する」ということなんじゃないか、と思うんです。

 アイドルが休養の発表をすると、僕もやはり不安になる。不安になるけど、では僕は何を求めているのか、となる。アイドルの女の子と僕が知り合うことはないし、実際に対面することもない。だから、休んで欲しい、と思っているのは、実は、また表舞台に立って欲しい、という意味合いで、でもそうなるとまたその女の子は疲れ切って、休んで、みんなでステージに上げて、また疲れさせて、となると、結局はやはり「消費」に過ぎないのではないか。

 荒木飛呂彦さんの漫画「ジョジョの奇妙な冒険」の第一部で、ディオというキャラクターが「お前は今までに食べたパンの数を覚えているか」などというシーンがあるけど、まさにそれで、僕たちは食べ物とか服とか、そういうものをどんどん消費している。水とか電気とかガスとかも。そういう消費が良いか悪いかも議論になるかもしれないけど、人間を消費してしまうことは、どこか非倫理的で、残酷なんじゃないか。

 僕はアイドルが歌って踊って、喋って、という活動をするのに、だいぶ癒されているけど、CDを買ったりはするけど、なんというか、お金とか数字では補えないほど、僕はスポットライトの中にいる女の子をただ食い物にしてるのでは、という罪悪感がどうしてもつきまとうのは、考えすぎなのか。

 大園桃子さんの卒業を聞いた時、真っ先に考えたのは「もうあのトークは聞けないのか」ということで、これは僕がラジオオタクであることも大きいのですが、この発想の次に頭に浮かんだのは「芸能界を引退するのかぁ。一般人として音声配信してくれないかな」ということで、その考えに気づいた時、自分があまりに品がなくて、強欲で、自分勝手で、愚かさしかないのが理解できた。そこまでして大園桃子という女の子から何かを得ようとするのか、と自分に呆れたし、情けなかった。

 僕自身には想像するより他に術がないけど、歌を歌うのにもダンスを踊るのにもレッスンが必要だし、ラジオで喋るのも、テレビに映るのも、ただぶっつけ本番で行く、というわけじゃないと思う。常に何を話すべきか考えて、探して、そういう日々の先に、ささやかなエピソードがあるとすれば、僕が消費しているのは、一人の人間の見ている世界、それも一度きりしかない一瞬の連続という世界で、人生といってもいいものなのではないか。僕は他人の人生を消費しているのでは。

 僕が大園桃子さんという人を忘れることはないし、もっと大勢の、僕の人生に関わった人を忘れることも無いんだけど、今になってみると、僕が何をしたのか、と思う。何も出来ないけど、どうしても何も出来ないから、と開き直るのは、あまりに酷いのでは、と思う。しかし、何も出来ない。それが、悔しい気持ちがある。はっきりと。

 僕がラジオが好きで、投稿もするのは、消費の一形態なのか、それとも消費される側につきたい、消費される誰かと重なりたい、という願望なのかな。よく分からないけど、消費というのは、奥が深すぎて、難解です。

 とにかく、大園桃子さん! あなたは幸せになるべきです! 生きたいように生きて、幸せになってくれ!

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