第109話 音楽って聞こえ方がそれぞれだ、と納得した場面
今はおそらく消えているのですが、あさがやドラム、というライブハウスの動画配信コンテンツで、鷲崎健さんと内田稔さんのライブがありました。その中の一つの最後で、虹のコンキスタドールの「夕暮れグラデーション」を歌っているのですが、それが凄いアレンジで、原曲とはまるで違うバラード調だったんですけど、本当に原曲とはかけ離れていた。かけ離れてたけど、決して悪くない! むしろ最高! となりました。その歌の後、鷲崎健さんが「俺にはこう聞こえるの」みたいなことを言っていて、その一言も腑に落ちたというか、僕にもこんな風に聞こえてるな、としみじみしてしまった。
今もYouTubeに原曲の、虹のコンキスタドールの「夕暮れグラデーション」のMVがあるはずですが、この曲の歌詞は曲調とは少し違う、すごく切ない内容です。この曲を聞けば聞くほど、僕の中では切なさ、切実さが強くなっていて、その感覚が、どこか曲のメロディと乖離した、自分だけのメロディみたいなものに変化している感触がありました。でも僕は音楽は出来ないし、ただ頭の中で、歌詞にしっくりくる自分だけのイメージ、が出来ていっていた。それが鷲崎健さんのライブを見たら、「これだよ!」となったのです。
この、音楽が自分の中で一人歩きして、本当のメロディと違うテイストの曲が、まるで歌詞に引っ張られるように出来上がっていく、というのは、実は僕の中では頻繁にあったのかも、と思います。というのも、僕はCDをどんどん買う方ではないので、大抵の曲はラジオで聞いて、週一とかで時間をかけて聞くのを繰り返すうちに歌詞がぼんやり頭に入ってきたら、後は頭の中でその歌詞をなぞることになります。そうすると、メロディがどんどん薄れて、自分の中で心地いいリズムで歌詞をなぞり始めてしまう。こうして歌詞は近いけど、原曲とは違うメロディが頭の中に出来上がる。やはり虹のコンキスタドールの「週刊少年少女アイドル」が今、そんな感じで頭の中にあります。
こういう時、楽器の一つでもできればなぁ、と悔しくなります。音楽って、どうしても小学校、中学校のイメージが抜けなくて、楽譜通りに弾いたり歌うとか、音程を外しちゃいけないとか、そういう感覚がありますけど、実はもっと自由で、好き勝手に作り替えても良いものなのかもなぁ、と感じました。似た感じではやはり小中学校での作文とか美術があると思う。誰かに褒められるように作らなくちゃいけない、と思い始めると、途端に窮屈になるし、個性は消えてしまう。僕なんか、美術はからっきしで、最初から上手く描けるわけもないのに、下手だと見られるのが嫌で、本当に絵を描くことをしなくなった。それがやっぱり、今の美術に関する劣等感に繋がるのかな、と思います。
上手いとか下手とかは後からついてくるし、それよりもっと自分の好きな形を探したり、見つけたり、模索したりするのが、楽しいんじゃないかな、と感じましたねぇ。
しかし、鷲崎健さんも内田稔さんも、神様みたい!
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