第100話 久しぶりに泣くほど笑った

 昔々、十代の頃は些細なことでゲラゲラ笑って、涙を流すことができたけど、最近は涙どころか、笑うこともないような日々でした。塞ぎ込むというより、うーん、つまらないことしかなかった。わかりきったこと、作られている意図されたもの、そんなことばかりに接している日々だった。

 今日、なんとなく話し始めた話題が、可笑しくて、変な風にツボにハマって、自分で話しながら自分の話すことが面白くて、笑うしかなかった。ちょっと頭がおかしくなったか、と思うくらい笑ってしまった。

 僕は例えばお笑いは好きでも嫌いでもなく、ただあまり特別に見たい感じでもない。でも振り返ってみると、お笑い芸人のネタで死ぬほど笑ったこともあった。そう思うと、人を笑わせる職業って、ある種の医者みたいに、人を救う仕事なのかもなぁ、ともふと思った。

 そんなに堅苦しい芸人の人はきっとほとんどいなくて、お笑い芸人も生きるのに必死だし、ただ何かを探して、目指して、知恵を絞って体を張ってるんだろうけど、本当はすごい人たちだし、社会貢献してるのだろうなぁ。

 今日の僕は自分で笑いながら、何か、憑き物が落ちたような気もした。何が発散されたわけでもなく、ただ言葉が言葉にならなくて、涙が出てきただけのことが、心を洗うように作用するのは、新鮮で、ちょっと救われた。

 人間は笑うものなのか、笑わないでもいられるものなのか、その辺りはわからないけど、笑うということが幸福の発露だとすれば、笑いは生きていく中で必要なんでしょう。

 暗いニュースという表現があるけど、社会なんて大抵、暗いし、ニュースは基本的に暗い。それが現実だ、という人もいそうだけど、僕は最近、ニュースに接しなくなって、ある側面を見れば社会からドロップアウトしているけど、心地いい、穏やかな世界にいるのは、僕の実感としてある。Mr.Childrenの「くるみ」の歌詞じゃないけど、平板な世界が僕の世界になりつつあったらしい。悲しみもないけど、笑うこともない。それが不意に否定されて、僕の内面世界に突然、波が起こって少し震えた。それは救いとしか言いようが無い。

 僕はきっと社会や世界と距離をとり続けるけど、身近なところ、限定された世界にも面白いものがある、というのは変な言い方をすれば、光が見えたようだった。なんか、心が晴れたなぁ。

 笑うこととふざけることは違うし、ふざけ方にも色々あるのを身をもって知っているつもりでいますが、本当に楽しく、良い形でふざけている人間でいたいなぁ、とも思った。笑うこと、笑わせることができない人間は、きっとつまらないし、ふざけることもできないのは、あまりにも人間が小さいかも。

 しかし、不愉快なふざけ方はしないように気をつけよう。

 あー、しかし、今日は笑った。

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