第99話 シーンに意味があるのか、ないのか

たまたま映画「イノセンス」をDVDで見直したのですが、記憶の中ではゆるゆると進行するイメージでしたが、非常にテンポが良い。ただ北端に向かった後のシーンで、祭りのシーンがかなり長くて、あれはやはり謎だった。その後のキムの館のシーンでさえほとんど無駄がないのに、あの祭りには何か意味があったのだろうか?

僕は映画にはほとんど精通していないので語れないのですが、小説でも意味のあるシーンとないシーンみたいなものはあって、しかしその「意味」が後になってわかる伏線の場合もあるので、どこが無駄かは、一概には言えません。それに、意味がないという意味があることもある。

難しいと思うのは、創作において成長を描く時、全く無駄を削ぎ落とすと、成長につながる「何か」が落ちてしまうことで、ただこれはある種の英雄とすれば説明ができるのは、創作ならではのテクニックかな、ということ。すぐ浮かぶのは「進撃の巨人」における最初の段階、単行本で二十巻くらいまでは、冒頭のシーンから半年程度しか経ってないということですね。読んでいるとエレンもミカサもアルミンも、ジャンとかも成長するけど、ものすごい短い期間で成長していることになる。これは読者の現実の時間が作用している、時間の流れが曖昧になる錯覚もあるけど、作中では成長の理由づけはあまりされない。もちろん、生死のかかる戦いを経た、という大きな演出が成立するので、ここまで来ると死線をくぐる、修羅場を切り抜ける、という理由づけだけでも十分かもしれない。説得力が十分にある。

反対に作者が必要と思ったシーンも、読者には退屈で無駄に見えることもままあると思われる。この辺りのバランスが創作の肝で、個性なんだろうけど、僕は何度か書いた気もしますが、試練はあるべき、とここ最近は思っている。それも地味で、地道な試練をやりたい。派手な花火みたいな大ピンチ!それを乗り越えたぞ!レベルアップ!ではなく、コツコツやりたい。ボスを倒すとかでもなく、スライムをコツコツ倒すでもなく、剣を素振りするところからやりたい。できれば剣を初めて手に取るところからやりたい。しかし、これをやるとストーリーの流れが悪い、悪すぎるし、テンポも乱れに乱れて手に負えない。でもでも、どうしてもやりたくなってしまう。

創作において何がどこまで許されるかは、全くの未知で、たぶん時代によって違うし、今と未来、三年後と五年後、十年後で、まるで違うでしょう。そういうのは時代性というよりは流行り廃りですが、どんどんスピードアップしたら怖いことになるし、僕の作るものは振り落とされそう。

修行のシーンとか、好きなんだけどなぁ。

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