第95話 カーネーションを見て、不意に気付いた自分の欠点

母の日ということで、カーネーションが届いたのですが、僕はそれを見て「母の日か」と思ったくらいで、しかし、もらった家族は、綺麗だ、ということを言っていて、すごいズレを感じた。家族の、ではなく、僕と常識との、です。

問題は二つあって、一つはまったくの僕の生きづらい理屈で、他人に贈るものなんだから綺麗じゃなければおかしい、とすぐに連想してしまう。だから例えば、枯れた花が届いたり、腐った食べ物が届いたりしたら、おぉ! こいつはすごい! と逆に感動すると思う。嬉しくはないが、意表をつかれるし、印象には残る。

もう一つは、単純に僕から見ると、何と比べて綺麗か、がわからないというものがある。比較対象がないし、綺麗なんだろうけど、綺麗だからどうなるのか、と、明らかに興醒めなことを思っている自分がいる。

これと似た感覚で、洋画で「全米が泣いた」などのキャッチコピーもよく分かってない。近いもので「感動の実話」とか言われても、やはりよく分からない。他には「あなたは涙せずにはいられない」と言われても、何か冷める。

小説でも似たような文句、キャッチコピーの作品がいくつもあるけど、僕は何かの創作に接して、それで泣くことが極端にない。ここまで来ると、どうやら感性がおかしいのではないか、と思い始めています。

すぐ思い出されるのは、住野よるさんの「君の膵臓をたべたい」の小説を読んだ時、終盤の激しい展開の場面で、想定外の展開に絶句するとか、理解が追いつかないとか、そういう感じではなく、「えー!」っと驚いてしまった。なんとなく、ミステリのトリックが明かされた場面を読んだ感覚に近い。

それを考慮すると、「泣ける」と言われると、どこで泣けるのか、どういう仕組みでこちらの涙腺を狙ってくるのか、と、すぐにその手法を待ち構える心理になる。泣かせにくるトリックがどういうものかを考えるので、感情ではなく理論や仕組み、構造みたいなものとして刺激が解釈されてしまう。

どんな創作でも「感動」は重要な要素、というか、むしろ創作は感動を作るものだと思う。作品で描かれる感動は、何とも比べられないし、ひとつひとつが全く別種の、唯一無二のものだと思う。そして読者は常に感動を待ち構えている。逆転現象にも見えますが、感動を待ち構える時、焦点の絞り方がうまくいくか、いかないかはあるのではないか、と思ったりもする。ミステリなら事件があり、トリックがあることを匂わせていけば、読者はトリックや犯人に焦点を絞ることになる。しかし恋愛などになると、読者が焦点を合わせる時、関係が結ばれるかどうかが描かれる二人ないしそれ以上の人物の様子に焦点を向けるのが自然なはずなのに、「あなたは最後に涙する」とか先に言われてしまうと、なぜ泣けるのか、に焦点が向けられて、本当の焦点からピントが外れて、全体的にぼやけてしまう気がする。

カーネーションを見ると、綺麗だ、と自然と思うものだとしたら、僕の感覚はだいぶおかしい。普通の人はカーネーションや花などを見ると「綺麗」という焦点をぴたりと合わせられるらしい。僕は何故かそこにピントが合わない。綺麗であるのはわかるけれど、別の何か、全く存在しないものにも焦点を合わせるがために、綺麗であることがボヤける。

まったく、欠陥人間な自分を思い知らされました。

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