第91話 奇妙な誤用から考えた自分の中の「世界観」

ネット小説の様子を確認し始めてから、ユニークな誤用にぶつかることがあって、考えさせられる。今回の話はそこから始まる、言葉から導き出せるかもしれない「内的世界」の話になります。

一番の衝撃は、「活字中毒」というワードが、対象が逆転して使われることで、これには驚いた。本当に驚いた。

本来的には「文章を読まないといられない人」という意味だったと思うけど、僕が見たところでは「文章を書かずにはいられない人」が活字中毒と表現されていた。

たしかに「活字」に関する「中毒」ではあるけど、ここまで来ると文章を書く人がめちゃくちゃ増えたんだなぁ、としみじみ感じますね。

あまり深追いするのは危険ですが、「活字中毒」はどこまでを範疇に収めるかは、甚だ難解で、毎日、本を読むとかではなくて、もっと身近な、例えばツイッターを見ていないといられない、みたいなのは、ちょっと別種の中毒だけど、基本的に活字を読むわけだから、うーん、どうなんだろう? 「活字」という単語が示すところが、ただの文字なのか、それとも新聞や雑誌の記事、エッセイや物語なのか、という境界線はありそうではある。ただ、何文字とか何ページとか何冊とかではないんですが。

ネット小説界隈でユニークなことといえば、書いたものをアップロードすることは、「投稿」とはあまり言わないように見える。どちらかといえば「連載」、つまり「掲載」に近い表現になる。人の目に触れるから、「掲載」の方が「投稿」より近くはあるかも。

前にも書いたかもしれませんが、僕は「執筆」という表現には違和感があるし、自分が書いたものも「小説」とは呼びづらい。肌感覚的なものですが、どうしても譲れない。なんというか、恥ずかしい。そこまで立派なことはしてないし、立派なものを作ってもいない、と思ってしまう。

似たところでは「アマチュア作家」とか「作家見習い」という表現も僕はどうしても使えない。作家ではないし、見習いというほどでもない。昔は便利な言葉があって「ワナビ」っていう、ネットスラングの一つの、作家志望者へのほとんど蔑称だったけど、今になってみると僕は「アマチュア作家」よりも「ワナビ」の方が馴染むなぁ、と感じますね。昔は嫌でしたが、今はすごくしっくりくる。

自分で自分を貶めている、卑下している訳ではなくて、何かはしているけど、何も形になっていない自分、というのは、どこの誰にも認められるべき要素がなくて、とても大きく出られない、恐れ多い、という気持ちが胸の中に確かにあるんですよね。これが作家とかそれを目指す人全体の、ほんの数パーセントの最上層の人たちを意識しているといえばそうなんですが、というよりは、僕の人格形成の時期には、中間層なんていなかったんじゃないか。あるのは「作家」と「志望者」の二つだけだった。それが今はその中間がものすごく広い幅で存在していて、僕がそこに馴染めない、というのが正しいような気がします。

いつまで経っても、僕は最下層にいて、見ているのは一番上で、なんか、本当に老骨って感じですね。いったい何時代の価値観だよ、と嗤うしかない。結果至上主義なのかもしれませんが、もっと残酷で、1か0しかない、勝者と敗者どころか、生きてるか死んでるかしかない世界が僕の内的世界らしい。しかし常に死んでますね、どうも。

とはいえ、不思議と死んでいても死に切らない。勝てるかもしれないと思っている死体、それが僕なのでしょう。

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