第74話 ライトノベル観さえも違うジェネレーション・ギャップ
多喜川亮磨さんという高校生くらいの方が、面白い意見をカクヨムにアップしていて、唸らされた。僕とはあまりに年齢の差があるせいか、「ライトノベル」の定義が違うのが面白い。
僕の中ではライトノベルというものはここ5、6年でだいぶイメージが変わっていて、北方謙三さんの「水滸伝」も、村上春樹さんの「一人称単数」も、月村了衛さんの「機龍警察」も、阿佐田哲也さんの「麻雀放浪記」も、田中芳樹さんの「銀河英雄伝説」も、池波正太郎の「人斬り半次郎」も、司馬遼太郎さんの「関ヶ原」も、米澤穂信さんの「折れた竜骨」も、森見登美彦さんの「四畳半神話体系」も、住野よるさんの「君の膵臓をたべたい」も、大崎善生さんの「聖の青春」も、井上靖さんの「額田女王」も、フィリップ・K・ディックの「高い城の男」も、アンディー・ウィアーの「アルテミス」も、アーネスト・クラインの「アルマダ」も、エイドリアン ・マッキンティーの「コールド・コールド・グラウンド」も、ピエール・ルメートル の「その女、アレックス」も、サマセット・モームの「月と六ペンス」も、レイモンド・チャンドラーの「ロンググッドバイ」も、ジャック・ヒギンズの「鷲は舞い降りた」も、トム・クランシーの「レッドオクトーバーを追え」も、みんなみんな、みーんな、ライトノベルとして読んでいる。ガルシア・マルケスの「百年の孤独」とか「コレラの時代の愛」とかも、どこかライトノベルっぽい。
それはそうと、今の高校生の中にも、親ライトノベル派と、反ライトノベル派がちゃんといることには、ある面では安心した。それと、今の10代に今のライトノベルの形を残してしまったのは、僕の世代のある種の誤りかな、とは思う。反省。
どこかに書いたかもしれないけど、僕は10年前くらいに、明らかなライトノベルと明らかな一般文芸の間に大きな溝があって、何かがそこを埋めるべきでは、とは思っていた。溝のせいで一般文芸にステップアップできないのでは、と思った。それがここ数年で「ライト文芸」がある程度の地歩を占めたので、これでスムーズに、流れるように読書好きがその趣味範囲、守備範囲を広げられるかな、と思ってましたが、どうやら、そうでもないらしい。
僕があまりにここ数年のライトノベルを知らなさすぎるけど、僕が読んだり書いたりしてて感じるのは、ライトノベルがいいとか悪いとかではないし、それは例えば「文学」、もしくは「純文学」が守られたり、継承されてさらに発展しなくてはいけない、という理屈ではないわけで、この話になると「文化」とは何か、になってしまう。ただ、これは事実だと思いますが、ライトノベルも一般文芸も純文学も、渾然一体としてて、実際的な技法のようなものは一括りになっているのでは、と感じますね。渾然一体としているのが「ライトノベルによる純文学への冒涜」とか「文学の低レベル化」と言われてしまうと、その通りかもしれませんが、うーん、出版や執筆活動が「商売」だから、という側面はあるけど、それよりは、やはり文化がこの数十年で変わったということだと僕は思う。良い形で変わったのはアニメで、ここ10年はアニメを見てても特に何も思われなかったけど、20年前は無条件で明らかに異質な目で見られた。
それにしても、僕の中での「ライトノベル」と今の高校生の「ライトノベル」のイメージが違いすぎたのは、驚いたなぁ。あまり考えたくないけど、今度は「ライトノベル」と「ライト文芸」の間に溝ができてるのかな。そこはさすがに、手がつけられないな。読書家の方々、もしくは読書家になろうとしている人たちの冒険心、探究心、好奇心に頼るよりない。僕自身もだけど。
そんなにライトノベルも悪くないと思うけど、そのうち、純文学が薄れていったように、ライトノベルも緩慢に、薄れて、溶けて、オブラートみたいに消えちゃうのかなぁ……。怖ぁー。
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