第70話 生命に対する冒涜はどこにボーダーがあるのか
これは創作の中ではよくあることですが、人間のクローンは、果たしてどう扱うべきなんだろう。その人格を、いかに扱えば良いのだろう。
例えば、医療目的でクローン人間を作ったとして、その臓器を交換する目的で生み出された誰かは、どんな権利を持つのか。人間なのに、ただの何かの部品、誰かのための部品として扱うのは、明らかにおかしい。倫理とか道義とかでは無く、根本的に何かが違う。
それはそのクローン人間を、「人間ではない存在」としても、きっと変わらない。例えば脳が存在しないように遺伝子操作してクローンを作るような行為は、露骨な言い訳で、やはり生命に何か、残酷な行為を重ねているように見える。
この問題を考え始めると、実は家畜なんかでもやはり生命は冒涜されているのでは。狭い空間に豚を閉じ込めて、都合の良い時に捌いて食材にする、とか。
もっとも、そうなると生命云々より、人間というものがその知性によって、自分たちに都合の良いものを作り出し、その結果、繁栄しているという事実が立ちはだかる。もし牛や豚や鶏を飼育せず、土地を切り開いて田畑を作らず、そうやって生きていくことを選んだら、きっと今はない。
そう考えると人間ってつくづく不思議な存在だな、と思いますね。個体として進化するのではなく、知識の発展とその継承によって繁栄している。しかも圧倒的に。
家畜に関しては、明らかに人間が多すぎるので、飢えを回避するためには仕方ないけれど、形式が定まりすぎて、現代人は家畜が飼われているところを見る機会も少ないし、どうやって食肉に加工されるのかも、見ることがない。それはそれで、恐ろしくはある。
話をクローンに戻すけれど、実際には世の中にはクローン人間は多く存在していて、それはつまり、「双子」のことです。一卵性双生児は遺伝子上では全くの同一個体のはず。僕はたまたま親戚に双子が多いのか、三組いるのですが、やはり親戚の内側からも比較されることが種々様々あって、僕からすれば、もっと個人、一人の人間として見れば良いのに、と思う。
そういう形を見てしまうと、ある側面からはクローン人間を「交換用臓器」とだけ見る、怖い発想が現実味を帯びていて、肝が冷える。人格という言葉は普通に使われるけど、何が「人格」かはすぐわからない。喜怒哀楽は人格なのか、好き嫌いは人格なのか、それとももっと複雑な、発想、探究、そういうものが人格なのか。
唯一無二のものが人格で、人格を否定することはきっと、やってはいけない。人格が傷つけられた時、あるいは、損なわれた時、それはきっと人間では無くなることを意味するし、その人格の大切さは、やはりどこかで議論しないといけない。
人格の否定は、遠回りな生命への冒涜では?なんて。
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