第48話 不意に思いついたSF要素

唐突に感じたことなのですが、ツイッター上で140字を使ってニュースを伝えるのって、実はすごく面白い要素なのではないか、と思うのです。

どんな事件や事態も、実際の情報を極端に削りに削って、140字にまとめると、実際とは乖離した感情や世論が形成されていく現象が起こりそう。その140字さえ掌握しておけば、実際の事実、報道内容の本質を、完全ではないけれど適度に歪めて、世論を掌握することもできるのでは。ちょっと伊藤計劃さんの「虐殺器官」に登場する「文体」に近いものがありますが、もっとリアルに突き詰められそう。

我々が140字に支配されるとしたら、その支配は全てに及ぶのではないか。140字で商売もできるし、政治もできてしまう。戦争もあるいは、できるかもしれないけど、それよりも戦争を終わらせることもできる、と僕は思いたいかな。

ただ140字に支配された世界があるなら、誰が誰を支配するのか、と考えると、そこにあるのは、姿の見えない支配者、市井の中に散漫に存在する支配者、誰もが支配を受ける支配者、という歪んで矛盾した言葉遊びに陥りそう。お互いに支配し合う、というか。それはもはや支配ではなく、自縄自縛に近いか。

そこまで進むと、「支配」自体が記号だし、政治だって戦争だって経済だって、記号になっている現代がおかしい気もする。2020年になるまで、誰もこんなに経済活動が脆いなんて、考えなかっただろうし。

脱線すると、「経済」の記号化が進み過ぎて見えなくなってしまった本来的な経済は、物々交換とか、物とお金の交換が、一対一やもっと分かりやすい形だったはずで、それは社会が小さいと言える段階を脱した時に、より複雑になって、難解になった。誰もが、周りの誰が儲けて、誰が損しているか分からなくなったし、自分がどうやって儲けているか、その儲けがどこから来るか、おそらくは極端に曖昧になったのでは。どうやって、というのは、接客して、とかではないし、どこから、というのは、お客から金が入る、という意味では無く、なぜお客が店に来るのか、という要素です。これはもう少し深掘りできそう。

というか、伊藤計劃さんが生きていたら、と思わずにいられないアイディアですね、こういうのは。それを言い出したら、コロナ禍を伊藤計劃さんがどう解釈するか、というのも気になるけど。

小説全てに言えることだと思いますが、創作の一部は間違いなく「現在」の解釈から発生するものなんじゃないかな、とも僕は感じます。伊藤計劃さんが9.11から「虐殺器官」を捻り出すように、我々は3.11から何かを生み出すし、コロナ禍からも何かを生み出すことになるんだろうな、と思っている。

僕がそれを出来るかは、別として。

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