第45話 僕たちが求めるある種の単純さ
大河ドラマ「麒麟がくる」をなんとなく毎週見ていますが、途中に休止期間があったので、いつ終わるのかわからないまま二月になり、ついに今週末、二月七日で最終回らしい。
今作は明智光秀が主人公で、つまりは最後の最後は、本能寺の変になるのは天地がひっくり返っても変わらない。ただ、僕がここまで見てきた感じで、僕の中での明智光秀の人物像と、僕の中での本能寺の変のイメージがだいぶ変わってきたし、自分がある種の単純さを、初めて歴史を学んだ子どもの時から求めていたのではないか、と考えた。
明智光秀がどうして織田信長を殺したかは、諸説ある、というか、本当のところは知りようがない。だって明智光秀が考えて決めたことで、人間は他人の心を覗けない。
僕は初めて日本史を学んだ時、織田信長というある種の英雄が夢半ばで倒れた、とか、明智光秀は権力を奪いたかった、という趣旨で本能寺の変を解釈したし、勉強を進める中で、織田信長が明智光秀につらく当たったのが原因とか、そもそも織田信長が一点の曇りもない人物でもないとか、明智光秀は暴君であるところの織田信長を倒したとか、さまざまな話が色々な形で耳に入ったけど、そういう全ては実は「理由づけ」なのではないか。筋が通る展開を補強している、というか。
だから、「麒麟がくる」を見ていると、明智光秀が最後の最後で織田信長を否定するその寸前まで、織田信長を支えようとする、信じようとする、というのは、ある種の「分かりにくさ」がある。
よく「日本人は勧善懲悪が好きだ」ということを僕は聞いてきて、それが部分的には、勧善懲悪の否定、という要素を持っているけど、それ以前に、「勧善懲悪」とは「単純さ」の一側面なのではないか。それが創作を抜け出す場面もあって、国際政治や、国政とかの市井の評価や判断にも現れている気もする。
単純なストーリーは読みやすいし、受け入れやすいし、むしろ創作はそれが良いんだろうけど、作る側ではなく受け取る側になるなら、僕は出来るだけ難解なもの、考えさせられるもの、もっと言えば、飲み込めないものを見てみたいかな、とも思う。現実社会が実は単純でも、僕はなんだかんだ、理屈をこねくり回して、解釈したり解体したりするのが好き、という変な癖があるらしい。
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