彼女と私の靴の話

ろくなみの

彼女と私の靴の話

 バスの窓枠にたまったほこりを指でそっと撫でる。私の指に、うっすら灰色の埃がお面のようにこびりついた。それをポケットに入れていたティッシュで拭きとった。

 窓枠の埃がそれだけでなくなるわけもない。カバンに忍ばせている、アルコール除菌シートで念入りにふき取ることにした。シートであらかた埃をとると、窓枠は銀色の輝きを取り戻した。座席に訪れた清潔と言う名の平和に、安どのため息が漏れた。

田舎といえど、平日のバスがここまで閑散としているとは。果たして経営は成り立っているのか。乗客は私と、通路を挟んだ窓際の座席にもう一人。椅子の上に膝立ちになり、食い入るように窓の外を見ている彼女だけだ。我が幼稚園の優等園児である彼女の、いつもと違う雰囲気に少しだけ戸惑う。

彼女は時々、私がいなくなっていないかを確認するように振り向いては、窓の外へ目線を戻す。流れていく風景は田んぼだけであり、面白いものなど何一つない。仕事なら注意をするところだが、今は有給を使っている。つまり、職務を全うする義務はない。

 さっきまで走ってきたため荒れていた息が、ようやく整い始めた。口の中の鉄のような味のする唾液をごくんと飲み干し、彼女へ問いかける。

「ねえ、どこまで行くの?」

 私の問いかけに答えようと彼女は振り向き、口を開いた矢先、バスのアナウンスが流れた。

「次は、○○。○○」

 その言葉を待っていたと言わんばかりに彼女はすかさず速押しクイズのように停車ボタンを押した。

「……そう。次なのね。ありがとう」

 にこりと私に微笑むと、次に彼女は自分の手をじっと見つめる。窓枠を触った際、手に埃が付いたのだろう。アニメキャラクターの絵がプリントされたポケットティッシュを取り出し、さっと拭きとる。その仕草を見て、ホッと胸をなでおろした。

 園児というものは空間を汚すのが仕事なんだと言わんばかりに、出したおもちゃは出しっぱなしにするし、服や靴は泥だらけにしてくる。その光景を見るたびに、背筋にゾワリと悪寒が走り、腹の奥が熱くなる。それに対して彼女の異常ともいえるきれい好きさに触れたときは、思わず息を飲んだことを今でも覚えている。

 彼女が停車までのひと時を座席の上に膝立ちになっている時に、パタパタと彼女の靴が動く。その赤い靴には黄色や青のペンキが点々と星クズのようについている。

 その靴を見て、自分がなぜ今ここまで来たのかを思いだす。

 私は、彼女を追いかけてきたのだ。

 私が出勤した午前七時。そこから数十分後。いつも通り彼女は、一番乗りに来園した。

まず目についたのが、彼女自身ではなく、その靴だった。

きらびやかな赤色。まっすぐで情熱的で、彼女の内なる炎を表しているようなその靴は、たしか先週買ったばかりの新品のはずだった。

私なら、その靴でここに来る選択はできない。

「なんで、そんなに汚れてるの?」

 ただの問いかけのつもりだった。

時に、「なんで」という言葉は人を追い詰める刃となる。

なんで片付けできないの。なんでそんなに汚いの。なんで。なんで。なんで。

 何度となく子供に浴びせてきた言葉。彼女にだけは伝えたことがなかった。他の子が散らばしたおもちゃを片付けるのも、鼻水で汚れた机を、丁寧に拭きとるのも、床に落ちている小さな埃を、誰に言うこともなくゴミ箱に捨てるのも、彼女だけだったから。

 彼女と、私だけだったから。

一種の裏切りのような思いに駆られたのかもしれない。私の中で、『汚い』と判断した物を身につけていることに。頭の中がふつふつと沸騰していくのを感じた。次々に脳裏に浮かぶ、園児を叱る言葉。膨らんでいく言葉の風船に脳が押しつぶされそうになり、やがて次なる言葉が口から放たれそうになったとき、彼女は私に背を向けた。そのまま何も言わずに、彼女は幼稚園の正門に向かって走り出した。咄嗟のことに息が止まった。

だめだ。追いかけなければ。そう思うころには彼女の姿は正門の向こう側へと姿を消した。


 そして今、数年ぶりの全力疾走の果てに、バスの中でこうして再開ができた。 人生初の有給届けを当日に何も言わずに叩きつけ、彼女を追いかけてきたことをそんなに後悔はしていない。もともと園で完璧主義な私が、今更浮く行動をしても何の痛みもない。

走った時の息切れは徐々に落ち着いて来て、お腹に手を当て、深呼吸をする余裕が出てきた。

それがため息だとでも思ったのか少し不安げに彼女は私を見つめる。

「大丈夫。仕事、さぼったわけじゃないから」

彼女には詳細を説明するのが礼儀な気がして、言葉を続ける。

「先生ね、お休みもらってきたの。だから大丈夫」

 何が大丈夫なのか自分でもよくわからずに苦笑する。けれども彼女は安心したのか再び外の田園風景に視線を戻した。気持ちはあの田園を駆けまわっているつもりなのか、足のパタパタの速度は若干増した。

 乗車時間が一時間を過ぎようとしたところで、彼女が下りる予定のバス停にたどり着いた。慌てて椅子から飛び降り、小走りで小銭を運転手に渡し、出入り口の階段を駆け下りた。彼女の背中が見えなくなると、バスの出入り口は蒸気機関車のような派手な音を閉まろうとする。彼女の後を追うため、慌てて私も立ち上がる。

「お、降ります!」

 いつも行動は素早くするようにと言っている立場なのに。情けなさと面目なさから顔が熱くなった。

 私がバスから降りるのを見ると彼女は再び歩きだした。彼女の小さな歩幅に追いつくのにそう時間はかからなかった。横並びになって歩幅を合わせ、歩いていく。冷たい風が、走ってかいた汗を乾かし、熱くなっていた頭が冷えてくる。足元の雑草がジーンズからはみ出る足首にこすれるのがむず痒く、高く足をあげて歩いた。その様子を彼女がちらりと見ると、彼女もまたそれを真似て歩きだした。二人とも競歩のような状態で進むことになった。

 歩き続ると、古びた校舎が見えてきた。たしか数十年前に廃校になったとかなんとか。 雑草の生い茂った校門の鍵は錆びつき、壊れており、彼女はその隙間を器用に通り抜けた。私は隙間を通るのも、錆びついた門に触れるのも抵抗があった。門を通り抜けた彼女のどこか得意気な笑みに無性に腹が立ち、後方に数歩下がる。そのまま助走距離をつけて、校門を飛び越えた。膝の皿が門の上端にぶつかり、そのまま門の向こう側へ頭から突っ込む形になった。雑草や土が鼻さきに思い切りこすれる感覚は久しぶりだった。

 そのまま痛みから動けず、雑草の地面に大の字に広がった。

 小さな足音が私に近づく。不思議な生き物を見るように彼女は私を覗き込んだ。ポニーテールの髪が私の鼻をくすぐった。

「くしゅんっ!」

 思わず口を抑えずくしゃみをしてしまう。しぶきを慌てて避けた彼女は、まるで珍しい動物を見つけたかのように笑った。

「先生だってくしゃみくらいするの」

 腰を上げ、足や尻についた雑草を叩き落とす。彼女は私が立ち上がるのを確認すると、慣れた様子で校舎の裏側へと歩みを進めた。

 視界から彼女がいなくなり、冷たい風が頬をくすぐる。風と共に、鼻を刺すような独特な香りが漂っていた。たしか、子供のころに父が犬小屋を作ってくれた記憶が脳裏をよぎる。

 何で今それを思いだしたのだろうか。香りの正体は校舎裏に回ったときにわかった。

 彼女の手には赤いペンキが、べったりついたハケが握られていた。ハケから滴り落ちるペンキは雑草を赤く濡らす。足元にはペンキの入った缶が置かれていた。彼女の視線の先にある壁を私も見る。。

 薄くすすけた灰色の壁には、赤や黄色に青色のペンキが花火のように広がっていた。何発も打ちあげられた花火のようなその模様は、何らかの意図があるのかどうかすら私にはわからない。ただ、そのやさしくも躍動感のある色彩に圧倒され、言葉を失った。

 彼女は私にかまわずペンキのハケを持った右腕を大きく振りかぶり、殴りつけるように色をつける。色がまだついていない部分に、流れ星のような赤色が加わった。

小さな宇宙を見ているようだった。

その勢いに吹き飛ばされそうになりながら彼女の動きに見惚れていた。ペンキのハケから滴り落ちる赤い色が彼女の靴をまた彩る。彼女もまた壁の作品の一部なのかもしれない。

 彼女の靴の汚れの背景は把握できた。いろいろと尋ねたいことはあった。どうしてここを見つけたのか。ペンキは誰が用意したのだとか、休みの日これをどれくらい続けたのか。一人で来たのか。

だがそれをすると、今の彼女の流れを止めてしまうような気がして、黙って見守ることにした。

ハケである程度色がつき、数十分前と比較すると、絵の規模は二倍ほどに広がっていた。、彼女は物足りないと言わんばかりに、ハケを草むらの上へぽとりと落とした。そして空いた両手をペンキの入った缶にべちゃんと音を立ててつっこんだ。

 ひえっ。そう言いそうになり、慌てて口をつぐむ。彼女は缶から手を引き上げる。手はまるで手袋をはめたようにペンキで赤く染まっていた。あのペンキを手から落とすのは至難の業なのを彼女は理解しているのだろうか。

 すると彼女は距離をとって眺めていた私のほうを振り向く。何かにおびえるように私は一歩後ずさる。

彼女は何か言いたいことがあるのだろうか。それを考え、沈黙に耐える。すると私に対して、白い歯を見せながらにんまりと笑いかけた。どこか誇らしくも見えるその笑みに、私も思わず頬が緩んだ。

 彼女は何も言わない。ただ、なんとなく、こう言われている気がした。

同じこと、できる? 

そう言いたいのだろうか。

 問いかけてもよかった。けれどそれを言う前に彼女は再び校舎の方へ足を向ける。

ペンキでべたべたになった両手で校舎の壁を彩っていく。スタンプを押すように、ペタンペタンと。何度も音を立てて。

 その音を聞きながら、彼女が使ったペンキの缶へ目を向ける。自分の手に、じわりと汗をかいている感覚が不快で、それを忘れるためにグッと握りこぶしをつくる。

 息を大きく吸った。お腹の中に新鮮な空気とペンキの臭いがたまっていくのを感じる。そして息を吐きながら、ゆっくりとペンキの缶に私の右手が入る。チャプッというやさしい音が鳴った。私の行動に気づいたのか彼女は私を見ていた。さっきの三割増しの笑みだった。私の行動を歓迎してくれているのかもしれない。

 手を缶から引っこ抜く。生暖かいペンキの感覚。冷たい風がそのぬるさを冷やしていく。じっとしていると乾いてしまう。それを理解すると私はすぐに彼女に横に行き、ペタン、と大きく手形を校舎の壁につけた。

 自分がつけた手形は、彼女よりはるかに大きい。けれど、自分が想像していたより、細く、小さく感じた。

その手型の輪郭をそっと撫でる。物珍しそうに彼女はその手形をじっと見ていた。

 何かコメントをしようかと思案するも、特に何も出てこないため、もう一発手形を残しておいた。

 時間を忘れるとはこのことかもしれない。何度も何度も手形を壁に残していく。手形に飽きるとその辺の花や葉っぱもペンキにつけ、その痕をつける。花びらや葉っぱのこすれ具合が残像のように見える。それが癖になり、私も彼女も、しばらく作品作りに没頭した。時にはハケを乱暴に壁になげつけたり、高いところに色を付けるため、砲丸投げの要領でハケを高らかに投げた。私の投球力に感心したのか彼女は小さな拍手をしてくれた。

 お腹がすくのも忘れて、気がつけば日が傾き始めた。

 ふっと、力が抜け、ペンキまみれの草むらに座り込んだ。彼女も息を切らしながら私の横に来て、肩を寄せ合った。彼女の小さな肩の温もりで、乱れた息がゆっくり整っていくのを感じた。

 トン、と。彼女のペンキまみれの靴の先端が、私の革靴の先端に当たる。私の黒い革靴についたペンキ痕は、夜空にちりばめられた星のように見えた。そして彼女の赤い靴は、朝よりペンキの量が増え、流れ落ちる滝のようだった。

 しばらく私も彼女も、自分と相手の靴を見つめた。

「きれいでしょ」

 先に口を開いたのは、彼女だった。

 今日初めて彼女の言葉を聞いた。やり遂げたといわんばかりの、どこか生意気にも見える笑みに、私もつられてこう言った。

「私の方がきれいだし」

 もちろん、どっちがきれいだとか、誰かが判断できるわけでもない。

 自分でも、どういうつもりでこんな言葉が出たかはわからない。ただ彼女はお気に召したのか、靴を左右にパタパタと動かし、等身大の五歳児らしく、甲高い笑い声をあげた。

 日はより一層沈んでいく。私たちの作品にも、うっすらと闇がかかり始める。遊びの時間は終わりを迎えようとしていた。

「じゃあ、帰ろっか」

 私がそう言うと、彼女は少しさみしそうに頷いた。重い腰をゆっくりあげ、立ち上がる。冷たい風がまた頬を撫でた。

 彼女は立ち上がらず、まだ壁の絵を見つめている。夕日が傾き、校舎も、私たちの顔も薄暗いオレンジ色に照らされた。

「ねえ」

 彼女から私は、今日、素敵なことを教えてもらった。だから、どこか納得していない彼女に、こう言った。

「ペンキの落とし方、知ってる?」

 彼女は私の顔を見ると、首をゆっくりと横に振った。まるで何かを期待するような煌びやかな目を私に向けた。

「じゃあ、今度は私が教えてあげるね」

 そう言うと、彼女は大きくうなずいた。

 今度は、私の番だ。それが彼女への礼儀だろうし、フェアな判断だろう。

 そして彼女は私の伸ばした手をそっと握る。ペンキのついた赤色が、雲の晴れた夕日に照らされ、より一層の輝きを帯びた。

 私と彼女は手をつないで歩きだす。

 草が足をくすぐる感覚はもう気にならない。小さな歩幅で、子守歌でも歌うほどのゆっくりペースでバス停へ向かう。

 途中何かに呼ばれたかのように私は振り返る。彼女もほぼ同じタイミングで歩みを止め、私と同じ方向を向いた。

ペンキで彩られた、倉庫の壁や草花、アスファルトの輝きがどうにも愛おしい。胸が高鳴り、心臓の鼓動が早まるのを感じ、空いている左手でそっと胸を抑えた。

彼女の握る手の力がほんの少し強くなる。私もそれにつられ、ほんの少し手に力を入れた。

手を握ったまま、足を動かすのも億劫だった。

暗くなる前に帰るはずが、すっかり日は沈む。

闇夜の中にうっすらと見える私たちの絵が、いつかだれかを導くことがあるのだろうか。

そんなことを彼女に尋ねるのもどこか無粋な気がして、ただ彼女の手を握り続けた。


                                おわり



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