#5 意識し始める夜宵

 その後、ヒナと夜宵は本屋へ寄り、夜宵は目的の漫画を買い、ヒナもラノベを何冊か買って一緒に帰宅した。

 家に着くと、夜宵は自室に籠もり買ったばかりの漫画を開く。

 その中身はヒロインの少女・ユリカが色んな恋をし、失恋を繰り返しながら前に進む少女漫画だ。

 果たしてユリカは最終的に誰とくっつくのか。夜宵も続きが気になっていた物語の新刊である。

 帰宅したとき、母からは三十分後には夕食にすると言われたものの、漫画の続きを読みたいという好奇心は抑えられない。

 ちょっとだけ、最初の一話だけ、と決めて夜宵はその本を読み始めた。

 そしてそこで衝撃の展開を目にすることになる。

 物語の中ではユリカの近所に住む幼馴染で年上の男の子であるトキの家でトラブルがあり、彼はユリカの家に泊まることになる。

 しかもその日に限って、ユリカの両親は家を空けており、二人っきりだ。

 トキとは二つしか年が離れていないものの、ユリカとしては彼を恋愛対象として見たことはなかった。

 付き合いの長さゆえか、ユリカはさほど警戒心も持たず、トキと一緒にホラー映画を観ながら日付が変わるまで一緒に過ごす。

 やがて眠気に耐えられなくなったユリカは、ソファに隣り合って座っていたトキの肩にもたれかかり意識を手放した。


『まったくお前は、無防備過ぎるぞ。俺だって男なんだからな、警戒心を持たないとどうなるかわかってるだろうな?』


 その言葉でユリカが目を覚ますと、ソファの上でトキに押し倒されていた。


 そこまで読んだところで、夜宵の頭の中は興奮と混乱でごちゃまぜになった。


――ウソウソ! あの優しいトキがこんな風に豹変するなんて!

――え? え? 冗談だよね。


 ページをめくる手に力がこもる。

 漫画の中でトキは怖いくらい真剣な顔でユリカに囁きかけていた。


『お前はずっと俺のことただの友達だと思ってたのかもしれないが、男女の友情なんて幻想だよ。

 俺はずっとお前のことが好きだったんだ。お前を自分のものにしたいと思ってた。

 今は二人っきりだ。もう我慢なんかできねえぞ』


 トキの顔がゆっくりとユリカに迫る。


――え? え? 嘘! このままキスしちゃうの?

――駄目、逃げて!


 漫画の中のユリカも夜宵と同じように突然の事態に困惑し、固まっていた。

 だから夜宵もユリカに共感していた。その時までは。


 トキの顔がゆっくりと近づき、ユリカの唇と重なる。

 ユリカは一切抵抗することなくそれを受け入れた。


――どうして? どうして避けないの? どうして逃げないの?

――ユリカにとってトキはただの友達で、恋愛対象として見たことなんてなかった筈なのに。


 夜宵がユリカに共感できたのはさっきまでのこと。今となっては、彼女の気持ちが全くわからなくなってしまった。


『男を家に泊めるってことがどういうことか、今から教えてやるよ』


 ユリカの耳元でそう囁くと、トキはユリカの服に手をかけ、脱がせようとする。

 その展開に夜宵はパニックに陥っていた。


――ダメダメ! 早く逃げて、襲われちゃうよ!


 漫画を読みながら必死にそう念じる。

 一方で漫画の中ではトキが上手くユリカの服を脱がせられず苦戦していた。

 そんな彼の様子にユリカは苦笑し、脱がせやすいように体勢を変えて彼を手伝い始める。

 そうして二人は生まれたままの姿になり、愛し合い、結ばれた。

 そこまでの展開を読んで、いよいよ夜宵の頭はパンク寸前まで追い詰められていた。


――ど、どうして? どうしてそうなるの?

――ユリカはトキのことを友達としか思ってなかったんじゃないの?

――突然襲われて困ってたんじゃないの?

――どうしてこんな短時間で、トキの気持ちを受け入れて、体まで許してしまうの?


 夜宵の乏しい恋愛経験では、ユリカの気持ちの変化にさっぱりついていけなかった。

 夜宵が落ち着かない理由はまだある。

 今読んだ漫画の二人の関係には身に覚えがあった。

 まさに今の自分だ。

 男の子を家に泊め、夜には母も仕事に出掛けて二人っきりになる。


――でも、いくらなんでもヒナは私のこと襲ったりしないよね?


 ついさっきショッピングモールでイエスノー枕をめぐり気まずい事態になりはしたものの、夜宵はヒナのことを信じてる。

 彼は最高に仲のいい親友だ。今まで何度も助けられたし、支えられてきた。

 だがそこで、先ほどの漫画の台詞を思い出す。


『お前はずっと俺のことただの友達だと思ってたのかもしれないが、男女の友情なんて幻想だよ』


 男女の友情は幻想? 本当にそうなのだろうか?

 夜宵はこれまでもヒナと一緒に遊んできた。

 好きなアニメの話題で盛り上がり、好きなゲームで対戦したり、あるいは協力プレイをしたりしてきた。その関係は仮にヒナが同性だとしても変わらなかっただろう。


――今にして思えば、私はヒナのこと異性として意識してこなかったんだなあ。


 決して彼に魅力がないというわけではない。

 どちらかといえば原因は自分自身の精神的な幼さだ。


――私はずっとヒナのことを友達だと思っていたけど、ヒナにとっては違うのかもしれない。


 本当は彼は密かに夜宵に想いを寄せ、夜宵を自分のものにしたいと思っているとしたら?


――どうしよう?


 夜宵は今さらになって気付く。

 母がヒナを家に泊めると言い出した時、自分は深く考えることなくそれに賛同した。

 ヒナと沢山遊べる、そんなことしか頭になかった。

 女の子の家に泊まる男の子の気持ちなんか想像もしていなかった。

 男の子は狼、そんなフレーズが頭に浮かぶ。

 二人っきりになる時を待って、あるいは夜宵が無防備になる瞬間を虎視眈々と狙って牙を研ぎ澄ましているのかもしれない。


――どうしよう、どうしよう。


 今になってよく考えずヒナを家に泊めたことを後悔する。

 今夜、ヒナと二人っきりになった時、襲われたりしたらどうしよう。

 男の子の腕力ってどれくらい強いんだろう?

 腕立て伏せ自己最高記録一回未満の自分が抵抗できるだろうか?

 いや、落ち着こう。

 ヒナは優しい男の子だ。もしもの時でも、ちゃんと嫌だって意思表示すればやめてくれると思う。

 うんうん、そうだよ。ちゃんと断ればいいんだ。

 そう考えたとき、先ほど見た漫画を思い出す。

 ユリカは幼馴染みのトキに迫られ、彼の気持ちを受け入れてしまった。

 今まで友達としか思ってなかったのに、なぜそんなに急な心境の変化が起きたのか、夜宵には未だにわからなかった。

 よく考えてみよう。

 今の夜宵の状況は漫画のヒロインの立場とよく似ている。彼女の気持ちを想像できる筈だ。


――コンコン。


 その時、夜宵の部屋の扉をノックする音が響き、彼女の思考は中断される。


「おーい。夜宵、入るぞ」


 扉のむこうから聞こえたのは、たった今まで夜宵の脳内を占拠していた男の子の声だった。


「ひ、ヒナ! どうしたの?」


 夜宵の返事を聞くと、扉が開き、彼が部屋に入ってくる。


「家に帰ってきてからずっと部屋にこもってたみたいだからさ、夜宵の顔を見にきたんだよ」


 そう話す彼の目がベッドに座る夜宵に向く。

 そしてその視線は夜宵の頭から腰辺りまで移動し、ベッドの上に投げ出された漫画を捉えた。


「それ今日買った漫画か? 見せてくれよ」

「えっ、待ってダメ!」


 夜宵の拒絶の言葉が言い切られるよりも早く彼は漫画を拾い上げ、ページをペラペラとめくって流し読みする。


「へー、夜宵って意外とムッツリなんだな。こんなエロい漫画読んでるんだ」

「ち、違うの。前の巻までそんなシーンなくて、こんな展開になるなんて思ってなくて」


 夜宵の弁明を、彼は興味なさそうに、フーンと聞き流す。

 そして嗜虐的な笑みを浮かべると夜宵に語りかける。


「でも、この漫画みたいな展開に実は憧れてたりするんじゃないのか? 叶えてやろうか?」


 彼は漫画を近くの本棚に置くと、ベッドに座る夜宵の両肩を掴み、ゆっくりと押し倒した。


「えっ」


 突然のことに夜宵は反応できず、驚いて彼の顔を見上げる。

 自分に覆い被さる形で、ヒナは意地悪な笑みを浮かべ夜宵を見下ろしていた。


「ひ、ヒナ、何を!」

「しっ、静かに。おばさんに気付かれるぜ?」


 そう言われて、夜宵は咄嗟に声を押し殺す。

 しかしよく考えると、むしろ母に助けを求める方が正しいのではないかと気付いた。

 そんな彼女の思考を見透かしたように彼はニヤリと口の端を吊り上げる。


「黙るってことはお前も期待してるんだな。いいぜ、夜宵。可愛がってやるよ」


 くしゃり、と彼の手が夜宵の頭を優しく撫でる。

 それだけで夜宵の体から力が抜け、抵抗する気力はどこかへ消えてしまった。

 心臓の鼓動が早い。ドキドキする。

 今日のヒナはとてもカッコよくて、色っぽく見える。

 そんな彼に身を委ねれば、自分はどうなってしまうのか?

 それを怖いと思う感情よりも、期待と興奮の方が上回ってしまった。

 そうだ、自分は期待している。興奮しているんだ。彼にこれから抱かれるという事実に、女としての喜びを感じている。

 ヒナは夜宵の顎を掴み、自分の顔を近づけてくる。

 夜宵も瞼を閉じ、自分の唇に彼のそれが触れる瞬間を待ち侘びた。

 そして――


 と、そこで脳内シミュレーションを終了し、夜宵は意識を現実へと戻す。

 自分の立場に置き換えてみたら、さっき読んだ漫画のヒロインの気持ちがわかってしまった。

 仲の良かった男の子に急に迫られて、ドキドキして、もうただの友達になんか戻れなくなってしまった。

 夜宵は改めて大変な状況になってしまったことに気付く。

 今夜にはヒナと二人っきりになってしまう。

 そしてもし彼にあんな風に迫られたら、自分は拒めない。一切の抵抗もできないまま彼を受け入れてしまうだろう。


――どうしようどうしようどうしよう。


 夜宵は悩む。

 ヒナに襲われちゃう? あんな風に迫られたら断れないよ。

 いや、まだ襲われると決まったわけじゃない。

 彼を極力刺激しない。エッチな話題を避けて変に意識させない。それを心がければきっと大丈夫な筈だ。

 思えば今日の自分はパンチラについて熱く語ったり、イエスノー枕の使い方を聞いたりと、知らず知らずのうちに男の子を刺激しすぎていた。

 今後はああいうことは一切ないように気を付けるべきだ。

 うん、そうしよう。

 変な雰囲気を作らないようにして、我が身を守らないと。

 夜宵はそう決意を固めた。

 その時、下の階から母の呼ぶ声が聞こえた。

 どうやら夕飯の時間らしい。

 父は仕事で数日は家に帰らない為、ヒナと母と三人での食卓になる。

 夜宵は部屋を出て、階段を下りる。

 そして台所に行くと、母とヒナが会話をしているところだった。


「日向くんはご飯どれくらい食べる? 育ち盛りの男の子だから地球一個分は食べるわよね」

「育ち盛りの男の子への期待度が高すぎません? 奥さん」

「二個分?」

「まさか上方修正されるとは予想外でした」


 そんな楽しげな空間に、夜宵は足を踏み入れる。


「おう、夜宵。待ってたぞ」


 ヒナが明るく笑って夜宵を迎える。

 彼はいつも通りだ。

 きっと自分が変に意識しすぎていただけだろう。

 こんな優しい笑顔を浮かべる彼が自分を襲うなんて、そんなことある筈がないと思い直す。

 よーし、今夜は彼と夜通しで遊ぼう。

 そんな風に、夜宵は期待に胸を躍らせるのだった。

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