第2話



「先輩、大丈夫ですか?」

「どうした、急にそんなことを聞いて」


 食堂で昼食を摂っていると、後輩が向かいの席に腰を下ろして私に声を掛けてきた。


「先輩、ここの所ずっとうわの空じゃないですか。仕事もミスが多いですし…。奥さんのことで気を病んでいるんではないですか?」

「お前には相談してなかったが、よく気が付いたな」

「そんなの見たら分かりますよ。一ヶ月前からこの調子じゃないですか?誰かに相談したんですか?」

「いや。親友に相談しようとしたんだが、忙しいのか連絡が取れなくてな」

「ああ、先輩の幼なじみでしたっけ?先輩よく自慢してましたもんね。『何でも出来る無二の親友だ』って」

「そうなんだ。彼とももう一ヶ月話して……」


 そう言いかけて私は口を閉ざす。親友と会えなくなったのはいつだ?そうだ、妻の態度がおかしくなった頃と同じだ。それから1度も会っていない。いつもなら私が困っているとすぐに駆けつけてくれたのに。

 一瞬、妻と親友が二人で会って熱い眼差しで互いを見つめている光景が浮かぶ。

 私は首を横に振ってその光景を打ち消す。まさか、そんなはずはない。親友が私を裏切ることはない。ない、はず……。


「先輩?顔色が悪いですよ?」

「すまない。気分が悪いから、早退する。上司に伝えてくれ」

「え、ちょっと、先輩!?」


 後輩の制止を聞かず、私は会社を早退し自宅へ向かう。

 息を切らしながら辿り着いた我が家に入る。今の時間なら妻は家にいるはず。私は部屋を一つ一つ見ていくが妻の姿が見当たらない。

 何度名前を呼んでも返事は聞こえない。

 どこにいるんだ?

 カタリ、と扉が鳴る音に私は勢いよく振り向く。そこには妻は驚いた顔で私を見ていた。


「あなた、どうして家にいるの?仕事は?」

「体調が悪くて早退した」

「え、どこか悪いの?」


 妻は慌てて私に近付き顔色を見ている。


「どこに行っていたんだ?」

「え?」

「お前はどこに行っていたんだ?」

「買い物よ。帰って鍵が開いてたからビックリしたのよ」


 妻は何でもないように言っているが、妻がいた所には買い物袋どころか財布も見当たらない。


「手ぶらで買い物に行ったのか?」

「玄関に置いてきたのよ。誰が家にいるのか分からなかったから」


 私はそんな妻を横に押しのけて、大股で玄関へ向かう。私の様子に困惑した妻がその後を着いてくる。妻が私を引き止めるより先に、私は何も置いていない玄関を目にする。


「どういうことだ」

「……」

「どうして買い物に行ったと嘘をついた」

「……」


 私が問い詰めても妻は戸惑ったまま何も言わない。


「やっぱり親友と出来ているのか?」

「え?」

「そうだな。アイツの方が私より優れているからな。アイツと浮気しているんだろう」

「ち、違うわ!そんなことしてない、私が愛しているのはあなただけよ!」

「じゃあさっきまでどこに行っていたのか言えるよな?」

「それは……」


 妻が言い淀むと私はふと、彼女の服装に違和感を覚えた。妻は大きめのコートを羽織っている。それは親友が好んで着ているコートだった。妻は親友と同じコートは持っていなかったし、サイズが合っていない。


「やっぱり、アイツと会っていたのか…」

「あ、あなた?」


 声を低くして近付く私に妻は後ずさりをする。

 逃げ出そうとする妻に私は手を伸ばして、そのまま床に押し倒す。派手な音をたてて妻は倒れるが、状況が理解出来ず困惑している。


「ど、どうしたの?あなた?」

「許せない。私はお前のことをこんなに愛しているのに、他の男…。いや、よりにもよってアイツに」

「そんなことないわ、私はあなたのことだけを愛して──」

「うるさい!!」


 言い訳する妻のことが許せず、私は両手で彼女の首を掴む。


「アイツに盗られるくらいなら、いっそ私の手で」

「や、やめ。くる…し…」


 妻が必死に両足をばたつかせて私の手首に爪を立てるが、妻に裏切られた胸の痛みに比べれば痛くも痒くもない。


「誰にも渡さない。お前は私のものだ」

「あ…あ、が、ぐっ」


 妻は涙を浮かべた目を見開き、空気を求めて口を何度も動かしている。醜く見えるその姿さえも私は愛おしく思えた。妻の今の姿を見たら親友はどう思うだろうか?

 きっと愛想を尽かすに違いない。

 私は親友が妻に興味を持たなくなるよう、手の力をさらに強める。その頃には妻の口からほとんど言葉は出てこず、くぐもった声しか漏らさない。あんなに元気に動かしていた両足もだらりと床に投げ出されている。

 そしてとうとう苦悶の表情のままピクリとも動かなくなった妻を見て私はそっと手を離す。色白の妻の首にはくっきりと私の手形が残っている。

 私の手が離れた途端、顔がゴロリと横を向いた。

 私の心の中は充足感でいっぱいになったが、すぐに我に返って自分の過ちに気付いた。

 私はなんて事をしたんだ。妻を盗られたくないからと殺して妻を失っているではないか。

 私はすぐに妻の胸に耳を当てて鼓動を確認する。温かさの残る体からは何の音も聞こえない。顔を起こして自身の震える手を妻の口元にかざしても、吐息が触れることはなかった。

 私は妻の体を抱きしめて、声を殺して泣いた。いくら泣いたって妻は息を吹き返さないし、私を抱き返して優しく微笑んでもくれない。

 妻を失うくらいなら、まだ態度はおかしい方がマシだ。

 後悔と罪悪感で胸が押しつぶされそうだ。こんな気持ち二度と味わいたくなかったというのに、どうして私はこんな目に遭っているんだ。

 そう考えた時、私は自分の考えに何か引っかかった。

 今の気持ちを味わったことがある?私は何を考えているんだ。こんな喪失感は妻を失うことしかありえないというのに、既に感じたことがあると考えているんだろうか。

 私が自身の考えに戸惑っていると、スーツのポケットから電子音が流れる。

 私は心臓が飛び出そうな程驚き、恐る恐るポケットの中を漁る。

 私の手に収めたのはディスプレイに着信の文字が映り微かに振動するスマホだった。

 発信者には『お義母さん』と表示されている。

 このまま切れるのを放っておけばいいはずなのに、私の指はボタンを押してスマホを耳に当てた。


「……もしもし」

「もしもし、あらお仕事は?」

「今日は体調が優れないので早退をしたんです」

「大丈夫なの?」

「ベッドに横になって安静していれば治りますよ」

「そう?あまり無理をしては駄目よ。あなたにまで何かあると娘は悲しむわ」

「私にまでって、身近で不幸がありましたっけ?」


 私の言葉に電話先のお義母さんの息を飲む音が聞こえた。


「何を言っているの?」

「何って、私には心当たりがないんです。お義母さん側で何か不幸があったんですか?」

「しっかりして!あなたがそんな様子だと、娘も浮かばれないわ」

「どうして妻が出てくるんです」


 まさか私が妻を殺したことがバレたのか?それは絶対にない、私が妻を殺したのは衝動的にしたことだ。こんな早くバレることはないはず。

 口の中がカラカラになりつつ、お義母さんの言葉を待った。


「娘の病気に気付けなかったのはあなたのせいじゃないわ。死んだ娘もそう思っているはずよ」


 お義母さんの言葉に私は耳を疑った。

 妻が病死?そんなはずない、たった今ここで私が妻を殺したんだ。

 私が妻へ視線を向けると、だらりと投げ出された手がピクリと動いた。見間違いかと目を擦ると妻が音をたてずにゆっくりと起き上がる。妻は虚ろな瞳と力の入っていない口は舌を垂らして生気のない顔をしている。

 この世のものではない妻の姿に私は絶句する。あまりの恐怖に妻の姿に釘付けになった私の耳にお義母さんの声が聞こえる。


「娘が言っていたわ。『私が死んだら、真面目で私のことが好きなあの人は自分のせいだと攻め続けるって。その時は誰かに相談しててって伝えてほしいの』」


 お義母さんの言葉で目の前の妻の顔の皮膚が少しずつ垂れていく。


「『誰でもいいの。会社の上司や後輩、あの人の両親や私の両親』」


 妻は慌てて顔を手で覆うも指の隙間から重力に従い皮膚が粘液のようにゆっくりと床に落ちる。


「『それとかけがえのないあの人の親友に』」


 ボタボタと妻の顔の皮膚を両手で塗りつけ、恐る恐る私を見た。

 化けの皮が剥がれて姿を見せたのは、私の親友だった。

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