第10話 アーリの見ている夢

「んん、体の調子は、うん、大丈夫。睡眠時間は少なかったけど、これなら問題ないね」


 陽が昇る頃に目を覚ましたアーリはベッドから降り、軽く屈伸をしたり体を捻ったりして具合を確かめ、調子の悪いところがないのに満足げに微笑む。

 今日は屋敷を出発する前にネフェシュと一緒に朝食を摂って、隠し通路を確認した後でゼゼルムをルゾンの冒険者ギルドまで連行する予定だ。

 アーリはルゾンへはそのままネフェシュ達に同行して、冒険者ギルドに登録の手続きを行うつもりでいる。


 アーリは鎧と丸盾はそのまま部屋に残して小剣と鞄だけを身に付け、一夜を過ごした客室を出る。

 するとちょうどネフェシュも客室を出るところだった。警戒を解いて身軽な格好になったアーリに対して、ネフェシュはというとこちらもアダマストラを外して、身軽な服装だ。

重厚な甲冑を脱いだ少女は、首から下を隠す薄手の黒い全身服、その上に袖の無い青い胴衣と太腿の半ばまでしか丈の無い脚衣を身に着けている。

 他には指先から手首まである白い手袋と、足元は茶色い革靴といった組み合わせだ。


 この上にアダマストラを直接着込んでいるのだろうか? とアーリは少し気になった。

魔術の防具の中には所有者の体格に合わせて、ある程度大きさの変わるものや、遠く離れた場所にあっても呼び出しに応じて出現する品もあると両親の手記には記されていた。

 ユヴァならばそういった魔術をアダマストラに施していてもおかしくはなさそうだ、と思うくらいにアーリはユヴァを優れた魔術士だと思うようになっている。


アーリの心中を知らぬネフェシュは、差し込む朝日に勝るとも劣らぬ輝く微笑を浮かべる。

 アーリの知る限り最も美しい女性はマグリエだが、最も可憐な女性はネフェシュで間違いなかった。アンシャナの姿を見ていればまた話は変わったかもしれないが、アーリが知るのは闇の女神の声と暗黒神の割には親しみやすい性格のみである。


「おはようございます、アーリさん。よく眠れましたか?」


「おはよう、ネフェシュ。ばっちり眠れたよ。お陰で疲れもない。君の方こそ大丈夫? アダマストラがあるとはいえ、ゴーレムと魔獣を相手にあれだけ立ち回っていたんだから、疲れが残っていない?」


「お気遣いいただきありがとうございます。ですが私は大丈夫です。アダマストラには軽量化の魔術が付与されていますし、眠る前に安眠作用のある博士特製の水薬を服用しましたので、昨日の疲れは一切ありません」


「そう、なら大丈夫だと信じるよ。後はユヴァ博士だけか。普段はどうしているのかな。ユヴァ博士を待ってから厨房に行くの? それとも朝食を作って持ってくればいいのかい?」


「いつもは博士もご一緒されます。ですが今回はゼゼルムさんがいらっしゃいますから、ご本人に確認を取りましょう。今の時刻でしたらもう博士もご起床されている筈です」


 ネフェシュは迷う素振りを見せず、二人の客室の間にあるユヴァの客室の扉を小さくトントン、トントン、と叩いて中のユヴァへと話しかける。


「博士、博士、ネフェシュです。朝ですよ。起きていらっしゃいますか」


 するとネフェシュが口にしたようにユヴァは既に起きていたようで、客室の扉が開いて猫のような狐のような何とも言えない小動物が顔を覗かせる。


「この通り起床している。ネフェシュ、小僧、二人とも寝不足という顔ではないな。朝食か?」


「はい。出発前に一日の活力を得る大切な時間です。これから厨房をお借りして用意しようと思うのですが、ゼゼルムさんに関しては如何なさいますか」


「奴ならまだ魔術で眠らせてある。このままこの部屋に置いていけ。どのみち、後、数刻は目を覚まさん。

 それに半日と掛からずにルゾンに着くのだ。一食や二食分程度なら、飲まず食わずでも死にはせん。お前達も奴の下の世話などしたくなかろうから、出発したら途中で起こすつもりだがな」


 ユヴァに下の世話と言われて、アーリはそれは確かに、と一人納得したものだ。そういった事は自分で処理してもらうに限る。


「それでは皆さんが揃ったので厨房へ向かいましょう。依頼主さんにはあらかじめ宿泊する場合にはお部屋と厨房、食材などの使用許可を得ておりますので、お気になさらず」


 手持ちの食糧がほとんど保存食だったアーリとしては、ありがたいネフェシュの言葉であった。

 地下にある厨房は使用人用の食堂が併設されていた。ゼゼルムが使用人を雇うかというと彼の気性と金銭的事情から可能性は低く、元々屋敷がそのように建てられていたのであろう。

 自動で点灯した魔術の灯りに照らされながら、二人は厨房に残されている食材を調べ始めた。ユヴァはそんな二人を食堂の机の上で丸くなりながら見ているきりだ。


「うわ、この保存庫からなんだか冷たい空気が出ているね。これも魔術の道具かあ」


 厨房にあったひときわ大き保存庫の扉を開き、そこから漏れ出てきた冷気にアーリはひゃっと子供らしい声を上げて素直な感想を口にする。

 ランゾンで暮らしていた頃に、魔術で物を冷やしたり温めたりする道具があると耳にしたが、こうして手で触れるのは初めての経験だった。

 純朴な少年の反応に、ネフェシュは微笑ましさと自分が既にその道具を知っている事への些細な優越感を抱いて、笑みを零す。アーリと行動を共にしてから、ネフェシュの笑う頻度が増しているのを、ユヴァだけが知っていた。


(やはり同年代の相手と行動を共にするのが、ネフェシュの情緒を健全に育成するのには適しているか……)


「アーリさんは冷蔵庫を目にするのは初めてですか? 魔術の関係者以外の邸宅や施設ですと、なかなかのお金持ちの方でないと持てない高級品だそうです」


温かな眼差しと言えば聞こえはよいが、ネフェシュから向けられる視線にアーリは羞恥で頬が赤くなるのを感じた。ネフェシュのような美少女にそのようにみられては、一般的な青少年の感性として、当たり前の反応だったろう。


「初めてだよ。こんなにひんやりとしているものなんだね。これなら食材が長持ちするわけだ」


「あまりお野菜はありませんね。どちらかと言えばお肉とお魚が多いです。ゼゼルムさんは好きなものばかり食べる方なのでしょうか」


冷蔵庫の中身の確認はそのままネフェシュに委ね、アーリは棚や床に置かれている大小の壺を調べてみる。


「塩にお酢、砂糖と香辛料か。こっちは酢漬けのキャベツに塩漬けの豚肉かな。それとチーズに小麦粉だ」


「時間の事もありますし、あまり凝ったお料理は出来ませんから、簡単な献立で妥協しましょう」


「うん。なるべく早くルゾンに行かないとね」


ゼゼルムが手を加えた厨房にある魔術の道具は冷蔵庫だけでなく、竈も魔術を用いた点火機能があり、薪を入れて点火すればあっという間に火が大きくなる便利な代物だった。

 竈の癖まで把握するのは時間的に無理があるし、二人とも本職の料理人ではないから、そこは目を瞑った。


手袋を外して良く手を洗い、作る料理を決めて必要な食材と調理器具を入念に確認。見ているだけのユヴァを他所に、さあ調理開始だ。

 ネフェシュが切り分けた香味野菜を包んだオムレツを作る傍らで、 アーリは沸かしたお湯に干し肉と刻んだ野菜を投入し、塩コショウで味を調える。

 体力仕事の冒険者は基本的に濃い味付けを好む。ネフェシュもそうなのだろうか? と考えつつ、アーリは干し肉の塩分と旨味が上手く働いてくれるのを祈った。

 スープを煮込み始めたら同時に茹でておいた芋を千切りにして、小さく切り分けたベーコンと一緒にこれも塩コショウで味付けしながら、薄く削いだチーズを乗せて、香ばしい焦げ目が着くまで焼く。


 長い独り暮らしで料理を含め家事全般がお手のものになったアーリだけでなく、ネフェシュも手際よく調理を進めている。

 同時にいくつもの調理行程を平行して進めて、短い時間な中で、できる限り豊かな朝食にしようと二人とも努力を惜しまなかった。

 酢漬けのキャベツと木製のボウル一杯のサラダを用意し、冷蔵庫にあった牛乳を温め、最後に林檎は皮ごと八つに切り分けて皿の上へ。


 お互いの邪魔をせずに調理はつつがなく終わり、食欲をそそる匂いが食堂いっぱいに広がる。アーリとネフェシュ、それにユヴァ用に少量ずつ取り分けた皿と、アーリのお願いによって用意されたアンシャナの為の料理を乗せた皿が食堂の机に並べられた。

 ネフェシュは几帳面な事に残っている食材の一覧を書き留めて、それも依頼主に報告するつもりであるらしかった。


(ああいう細やかな気配りが信頼と次の仕事に繋がるのかも)


 などとアーリは感心している。冒険者ギルドはまだ歴史が浅く社会への浸透度が薄く手探りなところもあるが、前進である万事屋や口入屋時代から変わらず冒険者に求めているものの一つが“信頼”だ。

 国家や社会に依らぬ武装した個人であり、職種でもある冒険者が万人に受け入れられるには“冒険者は近づいてはならない危険な連中だ”と問題視されず、必要な存在だと求められるようでなくてはギルドの商売が成り立たない。

 冒険者は命懸けの仕事が少なくない為、どうしても粗暴になりがちな傾向はあるが、それでも優れた冒険者であるほど他者からどう見られ、信頼されるにはどう振舞うべきかを心得ているものだ。

 ネフェシュに関しては言えばそういった考えよりも、単に元からの性格であるだろうけれど。


「それではいただきましょう。そういえばアーリさん、私は食前に祈りを捧げるほど信仰している神様はいらっしゃらないのですが、アーリさんの場合は祈りなどなにかを捧げないといけないのでしょうか?」


 アーリ、ネフェシュ、ユヴァの順で横並びに座り、朝食を摂ろうとしたところで、ふとネフェシュが問いかけてきた。

 祈りの風習それ自体は一般的なものだ。また本格的な祈りや供物を捧げるのも神官であれば極々当たり前のことであるが、アーリのような田舎から出てきたばかりの普通の少年となるとこれまた事情が異なる。


「一日に一度、僕が食べるのと同じものを供物として捧げるようにって言われているよ。今日は村を出て初めての冒険の後の食事だから、これを捧げようと思うんだ。誰かと一緒に食事を作るのも久しぶりだし、色々と特別だから」


「そうでしたか。日常的に供物を求める神とそうではない神とに分かれますが、アーリさんの信仰される神様は供物を求める神としては慎ましやかな方ですね」


「僕にとっては旅立つきっかけを与えてくれた方でもあるし、たくさんの恩があるよ」


暗黒神であることだけは口外できないが、もしネフェシュがアーリが成り行きとはいえ暗黒神の信徒であると知ったなら、それでも態度を変えないのか流石に警戒するのか。アーリは知りたくもあり同時に知りたくもないという矛盾を胸の内に抱えていた。


「その方のお陰で私と博士がこうしてアーリさんと会えたのですから、私達もその神様に感謝しなければなりませんね」


「それじゃあ、二人の分も僕が祈っておくよ」


「ふふ、よろしくお願いしますね」


 朗らかに笑うネフェシュに対して、ユヴァは沈黙を貫いており、ネフェシュほどアーリとの出会いに感謝はしていないらしい。まあ、ユヴァの事なのでアーリも気にしてはいなかった。

 ユヴァからは嫌われているという程ではないし、邪険にされなければそれでいいじゃないか、と大らかに考えているからだ。


「神様、今日の糧を得られた事に感謝し供物を捧げます。どうかお受け取りください」


(特別な単語などが含まれていない、至って普遍的な祈りの文句ですね)


 アーリから聞かされた制約から、神の御名が口にされないのは分かっていたが、それ以外にもその神にまつわる単語は一切口にされず、どの神に対する祈りの文句としてもあり得る内容だ。

 ネフェシュはアーリを助けてくれた神様について知る事が出来ず残念に思い、ユヴァは自らの知的好奇心が満たされなかったのを少しだけ不満に思った。

 一人と一匹の温度差のある感想とは別に、アンシャナはうきうきと胸を弾ませてアーリから捧げられた供物を受け取り、机の上から料理が忽然と消失する。


「受け取ってもらえてよかった。神様も喜んでくれていたと思うよ」


「それならなによりなのですが、神に供物を捧げる場面をこれまで何度か拝見してきたことはありますが、アーリさんの神様は静かにそして素早く受け取られるのですね」


「そうなの? ネフェシュは僕よりもたくさんの事を知っているね。村でも奉納を兼ねたささやかなお祭りをするけれど、確かに捧げものが消えてなくなるなんてことはないな」


 故郷での一幕を思い出し、確かにアンシャナのように捧げる端から供物が消えたことはなかったと思い出すアーリに、小さなベーコンを齧っていたユヴァがこう告げた。


「通常、神々は供物そのものよりもそれに込められた祈りや信仰を受け取り、自らの糧としているものだ。神々は我々よりも上位の次元に存在しているから、この世界の物質は糧にならんし、意味はない。

 だから供物そのものは残り、残ったそれらは儀式の後で信者に振舞われる、というのが一般的だな。オリハルコンなどの神々の世界でも価値のある極一部の例外を除けば、供物が消えるのは珍しい話だ。

 小僧、お前の信じる神が我々の世界に余程興味があるか、お前自身が気に入られているかだろう。世の中、信者全てに公平な神の方が珍しいからな」


 とはいえアンシャナの信徒はアーリ一人だけであるから公平も贔屓もないのだが、この場に居る二人と一匹はそれを知らないし、アンシャナ自身も初めての信徒を相手にどこまで肩入れして良いか、厳密な基準を設けていないので試行錯誤しながら見守っている有り様だ。


「気に入ってもらえているなら、なおさら命を助けてもらった分、なにか恩返しをしないとって思いますね」


「求められない限りはあまり気にしなくてよかろうよ。神々が地上の生物に干渉するのは、放っておいたら絶滅してしまいそうだからか、信仰を得て糧とする為か、それか暇つぶしの娯楽、この三つが主な目的だ。

 話を聞く限り、お前の場合は三つ目だろう。わざわざ命を救われた以上、普段のお前の行動のどこかに神の目を引くものがあり、祝福を与えられたのだ。それなら、お前はお前の思う通りに行動すれば、神の興味を満たせる理屈だろう?」


「僕の思う通りに、か」


「アーリさん、眉間に皺が寄ってしまっていますよ。博士も食事中にアーリさんの今後の人生に関わるような重たいお話は控えてください。ほら、こちらのお芋などはベーコンの肉汁をたっぷりと吸ってとても美味しいですよ」


「はは、そうだね。今はご飯に集中しようか。幸い神様も特に不満を口にされていないから、味には自信が持てるよ」


 アーリはネフェシュの言葉にぱっと明るく表情を変えて、目の前の朝食に手を伸ばす。軽く火で炙って温めたパンに、冷蔵庫の中にあった苺のジャムをたっぷりと塗りつけてから、大きく口を開けてガブリと一齧り。


「うん、このジャム、かなり甘いね。苺の甘さだけじゃなくって砂糖も随分と入っているんだ。贅沢だなあ」


「ゼゼルムさんは甘党なのかもしれませんね。お砂糖は今では普及しているとはいえ、昔はお薬として扱われていた時期もありましたから、それなりにお値段がするのですけれど。

 了承を得ているとはいえ、こうしていただいてしまうのは依頼主さんに少し申し訳ない気もします」


「事前情報にあった以上のゴーレムを片付け、行方を晦ませたはずのゼゼルムも捕らえたのだ。依頼主から評価を下げられることはあるまい。ネフェシュも小僧も遠慮をせずに食べろ。この後はゼゼルムが使っていた隠し通路を確認して、それから出発だ」


 ベーコンを片付けた保護者もといユヴァにそう言われて、少年少女は二人で初めて一緒に作った記念すべき朝食を噛み締めるように味わうのだった。



「そうそう隠し通路、隠し通路、それがまだ確認していなかったわね」


 そのように目の前の大鏡に映し出される光景に向けて話しかけるのは、言うまでもなく真なる暗黒の神、奈落の女主人、闇の女神アンシャナだ。

 真っ白い玉座に腰かけた彼女は黒いドレスの布地をテーブルクロス代わりに料理の皿を乗せ、拙い手つきでスプーンやフォークを動かし、アーリとネフェシュの作った朝食を口に運んでいる。

 誰に食事の作法を習う事もなかったアンシャナだが、様々な世界を覗き見して自主的に学習し、無作法にならない程度になっている。


「わ、ちゅっぱい」


 酢漬けのキャベツを一齧りし、思った以上に酸っぱかったそれに思わず目を瞑り、アンシャナは口直しにスープを一口飲んで、笑顔になる。


「うんうん、アーリの作ってくれるご飯も美味しいけれど、二人の作ったご飯も美味しいわね。供物は一日に一度だけでいいって伝えたのを、撤回したくなってしまうわ。

 でもアーリの負担になってしまったら可哀そうだもの。それに我儘な女神だって思われたくないものね」


 今度はオムレツに手を伸ばし、ふわふわに焼き上げた卵に包まれた色とりどりの野菜の触感と味付け、香りが口の中で交わるのを、頬を緩めて目いっぱいに楽しむ。


「うふふふ、飲み込むのがもったいないくらいだわ! とと、そうそう隠し通路ね。もうそこの小動物が見つけていたようだし、アーリと貴女が疲れる程のこともないでしょう。

 ユヴァと言ったかしら? アーリへは随分と言葉が強いようだけれど、アーリはそれほど怒っている様子もないし、表には出さないだけでかなりの働き者のようね。

 それに免じて私からはなにもしないでおいてあげましょう。ふふん、心の広いアーリに感謝するといいのだわ」


 途中、その瞳に胡乱な光を宿したアンシャナだが、アーリが手ずから皮を剥いた林檎を齧ると機嫌を直した様子で微笑み、ユヴァへ安易に神罰は下さないと誰に聞かせるでもなく口にする。

 こうして目の前の大鏡の中で和やかに食事しているアーリ達と一緒に食卓を囲んでいる気分に浸り、アンシャナは実に上機嫌だった。

 アンシャナの言葉が何一つアーリ達に届いてはおらず、一緒に食事を摂っているフリでしかないとしても、これまで数えきれない時間を孤独で過ごしたアンシャナには、それでも十分すぎる程に賑やかで心の弾む行為なのだった。



 ゼゼルムの使っていた隠し通路は、彼が引き籠っていた工房の奥にある小さな扉から続いていた。森の北端へと繋がる通路で、出口は森の中にひっそりと埋もれるように建てられた小屋だった。

 一見すると樵の使う小屋のようだが人避けと獣避けの結界が張られ、侵入を屋敷へと告げる警報の魔術も施されている。万が一にもゼゼルムの知らないところで、余人に使われない為の対策だろう。

 ゼゼルムは隠し通路とこの小屋を経由して、ルゾンとは違う町や村に足を運び、食料などの日用品と魔術の研究に必要な品を確保していたのだ。

 その為の資金をどうやって稼いでいたかまでは、アーリらの関わるところではないが、

ルゾン以外の街でも借金を重ねたか、詐欺に近い行いをしたのだろう、とユヴァは断言している。


 隠し通路それ自体は、ユヴァが昨夜のうちに眠らせたゼゼルムに軽い暗示をかけて聞き出しており、労力がほとんど掛からなかったのはネフェシュとアーリにとって幸いだった。

 ゼゼルムの確保に密かに増築されていた地下工房に隠し通路、小屋の発見と彼らの成果は多く、アーリという予定外の協力者の存在があったとはいえ依頼は大成功だろう。

 屋敷を後にする一行は、屋敷で調達した馬車を即席の馬型ゴーレムに退かせてそれに乗り込んだ。


「馬車があるのなら帰りは楽なものだね」


 と御者席に座ったアーリが、朝の清涼な風を頬に感じながら左隣のネフェシュに笑いかける。アーリは鎧兜を纏っているが、留め具を緩めて体への負担を小さくしていて、ネフェシュもアダマストラを纏わずにいる。

 荷台には猿轡に加えて魔術封じの縄で拘束されたゼゼルムが転がされ、ユヴァがその隣で監視している。


「はい。ルゾンの周囲に野盗の類は出ませんから、魔物に襲われない限りは安心して戻れます」


「そう言えばネフェシュと博士は歩いて屋敷に向かう予定だったの? ルゾンから近いし、馬車を使う距離じゃなかったのかな?」


「いえ、それはアダマストラの試験を兼ねての事です。長距離歩行での耐久性と移動後の戦闘における動作確認ですね。私達に限らず冒険者で懐に余裕のある場合には、長距離移動に際しては自前で馬車を用意するか、あるいはそれ込みの依頼を受けます」


「そっかあ。緊急の依頼じゃなかったら、僕は馬車を利用する余裕はないから、徒歩ばかりになるかな。駆け出しの冒険者って下水掃除とか荷物運びとか、単純な労働力の仕事ばかりって聞くけれど、本当?」


 本腰で冒険者をしているわけでないとはいえ、アーリからすればネフェシュは立派な冒険者の先輩だ。ついつい胸をドキドキとさせながらこう尋ねるのも、無理のない事だった。


「はい。やはり実績のない新人の方と言うのは、誰でも出来るお仕事をしてそれをきちんと行って結果を出し、最低限の信頼を積むところから始めるものですから。

 ただ既に傭兵や元騎士だったとか、別の職業で実績のある方や他の有力な冒険者や商人の方、貴族の方からの推薦があるとまた話は変わってきますね。

 まったく実績のない新人と既に実績を積み上げた新人とを、同じ条件で扱うのもそれはそれで不公平ですし」


「冒険者自体は昔から居ても、ギルドの歴史はまだまだ始まったばかりだから、あれこれ試しながらやっているんだっけ」


「そのようです。これまで明確に定義されていなかった各冒険者の格付けや登録制度、それに全くの素人の方を対象にした講習制度、依頼内容に対する裏付けや達成内容確認の調査と目新しい事ばかりですから、表には出なくても裏の方では大変お忙しいかと」


「それもそうか。ギルドの事務の人達なんて、簡単な読み書きや計算が出来るくらいじゃ務まらないだろうし、もっときちんとした教養がないといけないだろうしね。

 冒険者になる事が目的じゃないけれど、それでも冒険者になれれば一歩進めたっていう実感が持てそうだよ」


「アーリさんは冒険者だったご両親の夢を叶える為に、冒険者になられるのですよね?」


「うん。父さんと母さんの叶えられなかった夢を僕が叶えたいんだ」


 そう告げるアーリをユヴァは何か言いたげに見ていたが、結局黙ったままだった。


「もしよろしければアーリさんの引き継いだ夢について、お教えいただいてもよろしいでしょうか? ひょっとしたら私と博士でもなにか助けになれるかもしれません」


「ありがとう。それじゃあ話すよ。そんなに珍しい話でもないしね。父さんと母さんが探し求めていたのは、“夢幻領域ドリームゾーン”とそこに続く“虹の架け橋”を見つける事だよ」


「夢幻領域、半ば神の領域ともされる場所ですね。全ての魂持つ者達の夢が集う場所だとも、夢を司る神々とその眷属が住まう場所とも言われています。夢を通じてこの世の全てを見る事が出来るとも、知識を得られるとも伝えられる場所」


「夢幻領域は結構有名な場所だし、そこを冒険した人達の物語もあるから、それなりに知られているよね。でも本当にそこに辿り着けた人が居るのかは分からない。辿り着いたと言われている人達は、皆、物語の中の人物か、もう亡くなっているからね」


「はい。死せる勇士達が戦乙女によって運ばれる“ヴァルハラ”や冥府の神に選ばれた清純な魂だけが招かれる“エリュシオン”、そういった生きた人間が辿り着くのは不可能であるとされる場所の一つです」


「そうだね。でも、だからこそ求める人達は今も絶えないんだ。誰もたどり着けない場所でも、存在しないって証明されたわけじゃない。だから存在している事を、ありもしない場所なんかじゃないって証明したいって思うんだ。僕もそうだよ」


「そう、なのですね。ではアーリさんは夢幻領域に辿り着いたとして、そこでなさりたいことがあるのでしょうか? それとも、ただご両親の夢を継いで夢幻領域を見つけることそれ自体が目的なのですか?」


 当然と言えば当然のネフェシュの問いに、アーリは初めて言われたことに暫く目をパチクリとさせていた。夢幻領域を見つけ、辿り着く。それが彼の夢であり、冒険者としての目的であって、そこから先を考えたことなどなかったのだから。


「それは……そう、言われると考えた事もなかったな」


「夢幻領域を見つける事を目標とする冒険者の方は時折いらっしゃいます。そうでなくとも研究の為にかの地を探す魔術士や夢を司る神に仕える神官の方なども、夢幻領域を探し求める事もあります。

 でもそれは夢幻領域を見つけた後に得られる名声や秘術、神宝、富といったものが真の目的です。

 ですがお話を伺っていると、アーリさんは夢幻領域に辿り着く事だけを目的としていて、その後を考えていらっしゃらないのではと推測した次第です。そして、実際にそうでした」


 どことなく悲しそうな眼差しを向けてくるネフェシュに対して、アーリは改めて自分の胸中を推し量るように口をつぐんだ。それから自問自答するように口を開いて、ぽつりぽつりと語り始める。


「そう、だね。僕の所為で父さんと母さんが冒険者を止めたから、二人の夢を叶えなきゃって思ったんだ。だから、そうか、だから、夢幻領域を見つけた後のことは考えてなくて、ネフェシュに聞かれても答えられなかった?」


 そう呟いて自分自身を見直すアーリを、ネフェシュは静かに見守っていたが、荷台のユヴァは馬鹿らしいと言わんばかりに鼻を鳴らした。


「ふん。お前の浅慮は想定の範囲内だ。だがそれが問題か? 夢幻領域に辿り着くことそのものが万人の心を挫いてきた難事だ。辿りついた後を考える余裕など、小僧、お前が持てるものか」


「えっと、つまり、後のことは夢幻領域を見つけてからにしろって励ましてくれているんですか、教授?」


「どう解釈するかはお前の自由だ。そこまで指図する謂れはないぞ」


「ふふ、そうですね。ならまずは夢幻領域を見つけるのを最初の目標にして、見つけてから次の目標を考えます」


 ユヴァはアーリの答えには何も言わず、ふいっと顔を背けて黙る。人嫌いの気があるのに面倒みは悪くないこの魔術士らしい態度に、アーリは笑みを浮かべた。


「すみません、アーリさん。私が余計な事を言ったばかりに」


「ううん。きっといつか、誰かに言われるか、自分で気づく事だったと思うんだ。僕自身が求めた夢じゃないってね。でも父さん達の夢だったとしても、それを叶えたいと思ったのは他の誰でもない僕だ。だから叶うまで頑張るよ」


「はい。僭越ながらこのネフェシュ、アーリさんを応援いたします!」


「ありがとう! それに一度拾った命だからね。今度こそは後悔の無い様になんだってやってみようって気になるしね」


「それは、流石に言葉に困ります、アーリさん……」

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