第4話 暗黒の誘い

 アーリは机の上に並べた供物という名の料理を前に、さて次はどうしようと首を捻る。

 ランゾンで執り行われる催事を真似してみればよいのだろうか? 神様――女神アンシャナが、供物を捧げる儀式のやり方を教えてくれればなによりなのだが、夕食の準備を始めてから一度も彼女と繋がる感覚は発生していない。

 暗黒神の機嫌を損ねたらどうなるのか、という恐怖と、どことなく寂し気だった女神様なら理不尽な仕打ちはしないだろう、という憶測が同時にアーリの心の中にある。


「まずは形から入ってみよう、うん」


 胸中の不安をごまかすためにわざと口に出しながら、アーリは椅子に腰かけてアンシャナの為に並べた料理に向けて指を組み、目を閉じて祈りを捧げる姿勢になる。

 アンシャナから教義や祈りの所作や文句は聞かされていないから、アーリの即興になる。


「我が神アンシャナ。今日、僕の命を救ってくださったこと、力を与えてくださったことに感謝し、供物を捧げます。どうかお受け取りください」


 自分の祈りと声が届いていると良いな、とアーリが切実に祈りながら目を瞑り続ける事しばし、アーリは恐る恐る目を開き、アンシャナの分の料理だけが食器ごと消えているのを目にした。


「おお、祈りが届いたんだ。すごいな」


 昼間の戦いや自分の身に起きた奇跡に比べれば何ということもない筈なのだが、純朴な田舎の少年であるアーリは、初めて目にする現象に対して無邪気に驚いていた。


「あ、でも食器は返してもらえるのかな?」


 料理を食べてもらえたなら嬉しいくらいだが、食器は返してもらえないと困ると呟くアーリの声は、果たしてアンシャナへ届いていたかどうか。



「フンフン、ふんん~?」


 アンシャナはアーリが自分に供物を捧げてくれているのに気づき、その場で小躍りしてから供物を受け取ったのだが、その後に彼女は乾いた大地の上に置かれた料理の皿を前にしゃがみ込んでは手に取り、フンフン、と犬のように匂いを嗅いではつぶさに眺めている。


「これは……これがあの噂に聞く、いえ、噂なんて聞いたこともないのだけれど、これが料理! 料理というものなのね! これが魚、野菜、茸、苺、蜂蜜、パン! この赤いのはワインね、葡萄酒!」


 一つ一つの皿を取り、キラキラと瞳を輝かせてアンシャナは子供の様にはしゃぎ、笑顔も浮かび続けて消える様子がない。


「ふふふ、アーリはとっても敬虔な信徒ね。私が温めておいた必殺技の奇跡を授けた甲斐があったというものだわ」


 上機嫌という言葉がこの上なく似合う様子のアンシャナは、気にせず地べたへと腰を下ろす。これまでアンシャナが口にしてきたのは、小さな泉から無限に湧き出る清水のみ。

 頭上に広がる星々の世界を眺めて、食事という行為や味という概念は理解していても、彼女はそれを水でしか知らない。

 だからこそ、目の前にある色鮮やかで、熱を持ち、複雑な芳しい香りを放ち、様々な形を持った料理は、彼女にとって初めて自ら味わうことが許された唯一無二のものだった。


「ま、まずはそうね。喉を潤すとしようかしら? 食前酒? というのよね。ええと、このワインから、そう、ワインからいただきましょう」


 誰が見ているわけでもないのだが、アンシャナはやたらと気取った仕草と緊張に震える声を出しながら、アーリが客人用にとっておいたワインの入った錫のカップを手に取る。

 これまで泉の水を飲む時には自分の手で掬って飲んでいたから、カップを使うのもアンシャナにとっては初体験だ。

 アンシャナは恐る恐るカップに口をつけて、赤い液体を口の中へと運んでゆく。んく、と小さな音を立てて一口飲んだ後、驚いた顔になって大きな目でパチパチと瞬きを繰り返す。


「んん!? なに、この味? この、えっと、何て言えば良いのかしら? 確か初めてお酒を飲んだ人々の反応は……そう、苦いか酸っぱいね! これはきっと苦いのよ。それか酸っぱいの! う~ん、好もしく感じる味を美味しいというそうだけれど、これは……」


 どうやらワインは、アンシャナのほぼ未発達な味覚にはまだ早かったらしい。

 一口だけでもう充分という顔になっているアンシャナだが、ワインがアーリからの供物の一部だと思えば残すわけには行かないと、使命感すら抱いていた。いや、燃やしていた、というべきだ。


「よし、全部飲むけれど、でも、ちょっと後回しにするわ。アーリ、貴方からの供物を残したりはしないから、安心しなさい。

 それじゃあ、次はこっちの果物のジュースをいただこうかしら。確か果物のジュースは、甘くって少し酸っぱかったりするのよね」


 アンシャナはいまいち理解していなかったが、彼女にとってワインの苦みが受け付けられなかったのに対し、ジュースの方は匂いからして甘く、これには彼女の期待も自然と大きくなる。


「ん……うん、うん! いいじゃない。これが甘いということなのかしら? 美味しいわ! 甘いは美味しいなのね。あら、もう半分も飲んでしまったわ。このまま飲み干してしまっては勿体ないから、最後まで取っておきましょう。

 それとこのツブツブがいっぱいの赤いのは、苺ね? 琥珀色のねっとりとした液体が掛かっているけれど、これはきっと蜂蜜だわ。たっくさん見てきたから、分かるもの」


 フフン、と誰に言うでもなくアンシャナは自慢そうに鼻を鳴らす。生れ落ちてから今日に至るまで自分だけで過ごしてきた彼女は、必然的に独り言をいう癖が身についていた。

 それからまだ温かい料理に目移りして行く中で、アンシャナは興味を惹かれるがままに手を伸ばし、多くの世界を観察して学んだマナーに従って、アーリの心づくしを堪能するのだった。


「このパンというのは、食べていると口の中の水分が持っていかれるのね。初めて知ったわ!」


 なにはともあれ、女神様が初めての食事を満喫しているのは確かだった。



「あ、戻ってきた」


 夕食を終えたアーリが食器を洗おうと席を立った時、ちょうど彼の目の前で空になったアンシャナ用の食器が前触れもなく出現した。

 彼女の口にはあまり合わなかったワインを含め全て食べられており、パン屑一つ残っていない食べっぷりに、アーリはどうやら悪くはなかったようだと胸を撫で下ろす。


「あれ、でも魚の骨がないな。……まさか、食べたのかな? それに、食器が洗ってある。洗って返してくれたのか。アンシャナ様が自分で洗ったとは思えないけど、従属している他の神様とかがいるのかな?」


 アーリは汚れ一つなく綺麗になっている食器を一つ一つ、手に取って心から不思議そうに眺めて、思い浮かんだ考えを口にする。自分で口にしてもあまり現実感はないが、まあ、相手は神様だから自分の常識は通じないだろうと納得する。

 実際のところはというと、川魚は頭と尻尾と骨だけを残して綺麗に食べた後、記念品だからと玉座の裏に隠し、食器は泉でアンシャナが手ずから納得行くまで綺麗に洗って返していたのだが、アンシャナが自ら告げる以外にアーリがそれを知る術はない。

 ひょっとしたら食器も供物に含まれて返ってこないかも、と心配していたアーリからすれば、綺麗に洗われた上で食器が戻ってくれば文句などない。

 これからアンシャナに捧げる供物の工面という新しい仕事が増えたが、命の恩に比べれば安いものだ、とアーリは考えていた。


『アーリ、アーリ、我が眷属、我が信徒アーリよ、我が声が聞こえるか?』


「神さ、じゃなくて、アンシャナ様」


『聞こえているようだな、よろしい。汝より我に捧げられし供物、確かに我が元へと届いた。汝の赤心を喜ばしく思う』


「はい。その、こんな田舎の料理でお恥ずかしい限りですけれど、受け取っていただけたならなによりです」


『その謙虚さは嫌いではない。そしてアーリよ、今は衆目がない故構わぬが我が声に応じる時は心にて念じるだけでよいぞ』


 万が一、衆目のある場所でこんなやり取りをしていたら、アーリは相手もなしに一人でブツブツと話をする不審人物だ。そんな様子を見咎められたらどうなるだろう?

 アーリは自分が暗黒神の眷属になってしまった事実を、隠し通せる自信がない。たとえ神からの試練で、神の名を口に出来ないという事実を伝えても、カマをかけられてそれに引っかかるか、あるいは別の神の奇跡によって主神が誰であるかを看破される恐れはある。

 アンシャナの指摘を受けて、ようやくその可能性に思い至ったアーリは空の食器を手に持ったまま、慌てて口を閉ざす。


(……はい! あの、これで聞こえていますか?)


『うむ、ばっちりと聞こえているぞ』


(ばっちり?)


 なんだか威厳ある神様らしからぬ発言だ。


『…………小さき者たる汝の声も我が信徒とあらば我は聞き逃さぬ』


 アンシャナから返事があるまで間があったが、その分なのかやけに早口だった。


(えっと、ありがとうございます?)


 なんだか随分と間があったし、誤魔化されたような気もするが、それを恩のある神に指摘するのもどうかと思い、アーリは心の片隅にしまい込んだ。この瞬間、アンシャナがあわあわとしているなど、彼には想像もつくまい。


『アーリよ、戦いの後にも関わらず我に供物を捧げんとしたその誠意を我は好ましく思う。これより我には日に一度、汝が食するものと同じものを少量捧げよ。ただし、汝が困窮し食に難儀している場合は捧げなくともよい。我は寛容なれば』


 これはアーリにとって実に都合の良い提案だ。仮に自分の食事と同じものをアンシャナへ捧げるにしても、単純に食費が二倍になってしまう。どうやってそれを工面しようかと、アーリが悩まなかったと言えばそれは嘘になる。

 ところがアンシャナは日に一度、アーリよりも少ない量で構わないと告げ、しかもアーリが困っている時には捧げものは要らないとまで告げるのだから、アーリがすぐには信じられなかったのも無理はない。


(え、でも、そんな少しで構わないんですか? 村の催事の時とか、父さん達の手記に描いてある他の神様達への供物は、もっと豪華で頻度も多いのに)


『ふ、とくと拝聴せよ。我はアンシャナ、唯一無二の真なる暗黒の神、深き奈落の女主人、大いなる闇の女神、凡百なりし他の神とは異なる者。我に関して他の神を参照する行為に意味はない。アーリよ、汝は我の言葉だけに耳を傾けよ。汝は我が信徒なれば』


(……はい、アンシャナ様)


 まるでアンシャナという暗黒に溺れるように誘う言葉に、アーリはすぐに返事は出来なかったが、やはりこの方は恐ろしい暗黒神なのだと考えて、彼女に心を支配されないよう強く自分を持とうと密かに決意する。その決意さえも、女神にはバレているのかもしれないという恐怖と共に。

 まあ、当のアンシャナはといえば、アーリは素直ないい子だなあ、と白い玉座の上で満面の笑顔を浮かべ、無邪気に喜んでいたのだけれど。


<続>

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