ナイフを持った。

 


 夜が心地良くなる。


 この闇は、何でもない、ただの真っ黒で。


 何も無いからこそ、私は、止まって蹲ることができる。


 手に握るのはナイフだ。

 ナイフでなければならない。


 レンガもバッドも駄目だ。

 

 歩く、歩く、歩く。


「……」

「……」


 街灯の中をすれ違う人々。

 コロナになってから、二年前のような熱気は無くなった。

 この道を歩いた時、かつて、俺はとても楽しい気分だったことがある。


 屋台のアイスクリームを食べて、軽くスマホのソシャゲをしながら、騒めく町の夜の中で、街灯に背中を預けて過ごした。


 もうできない。

 もうやれない。


 俺は、ダメになった。


 男も女も、少年少女、あの大学生達も。

 まるでシルエットのようだ。

 二年前と比べたら、ゾンビのようだ。


 俺は進む。

 俺は歩く。


 誰も俺を止められない。


 ポケットの中のナイフの冷たさが、俺の心を鎮めてくれる。

 静かに、静かに、俺は熱くなる。


 海に浮かぶヨットが揺れている。

 静寂の様な闇に、影達は群れ、俺は進む。


 無限に広がる世界。 

 閉ざされた世界。

 俺を阻む絶対の境界。


 それが海だ。


 見ろ! この広い絶望を!

 見ろ! ここで立ち止まった俺の弱さを!


 俺は勇者になる。


 ナイフを掲げる。


 これが聖剣だ!


 何度も何度も虚空を切り付ける!!

 

 吐息は白く息が上がり、ふらついた足に取られて、コンクリートの上に投げ出される。


「とどめだああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」


 振り被って、全力でナイフを太平洋に向けて投げた! 


 闇の中に微かに音がして。

 あとはずっと、途切れることの無い波の音に向かって、荒い息を吐いていた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る