第30話 守り続けた約束

結愛ゆあ。ここにいたんだね」


 不意にその声は響いた。


「……雪人ゆきと


「雪人? 誰、どこにいるの」


 ひろしには声の主の姿は見つけられない。しかし結愛には感じられているらしく、顔をうつむけてこくりとうなづいていた。


「探したよ。君の気持ちはわからなくもない。でも君はもう天守てんもり候補生なんだよ。わがままは許されない。さぁ帰ろう」


 声はどこからともなく聞こえ来るのだが、しかし洋には気配すらも感じられない。


「ん、結愛。人前で術を使ったね。只人ただびとの前で術を使ってはいけないといった筈だよ」


「……ごめんなさい」


 結愛はばつが悪そうに、その頭を下げた。声の主はそれで満足したのか、ふむ、と軽くうなづいていた。


「まぁ彼もまだ子供だし、大騒ぎする事もないか。ただ念の為、記憶は消しておくよ」


 男の声と共に、洋の頭にキンと冷たい何かが走った。額に何かが触れる感覚。まるで締め付けられるように頭が痛む。


「ぅぐぐぐぐぐぐ」


「ふぇ!?」


 呻きを上げた洋に、結愛が心配そうに声を漏らす。


「心配する事はないよ。すぐに頭痛はやむ。その時には僕達の事は忘れているけどね」


 声がそう告げた時には、洋はもう意識を失っていたようで、そのまま床で力尽きていた。しかしその寝顔には苦痛の色はなく、結愛も安心した顔で、こくりとうなづく。


「でも僕がこうして探しに来るというのは、大変な事なんだよ。わかるね」


「……うん」


 雪人の声に、結愛は再び首を縦に振る。


「僕は守の民もりのたみ全員の意志。そして古来より受け継いできた力そのものであり、天守達の魂の集合体であり、形無きもの。僕がこうして現れたという事は、君の事をみんなが心配しているという事なんだよ」


「……うん」


「守の民が強く願えば、僕はそこに現れる。大きな力を持って。だけど大きな力は、時として災いを呼ぶ。悪意をもって私を求めるものがいたら、世界を動かす力を手にいれられるかもしれない」


 雪人は淡々と、しかし力強く告げる。すぅと音も無く、ここに姿が現れていく。一人の麗しい青年の姿をもって。


 これは雪人本来の姿ではない。雪人はあくまでも霊体であり、形があるものではない。


 雪人はいわば天守の守護霊とでも言うべき存在なのだ。大きな力を持ち、そしてそれを人に分け与える事が出来る。

 その実態は天守の先祖達。その霊の集合体だ。つまり意志を持つ力であり、彼はどんな姿でも取る事が出来る。


「だから僕は長居する訳にはいかない。さぁ、帰ろう、結愛」


「……待って」


 結愛は思わずそう呼び止めていた。じっと洋を見つめながら。


「なんだい?」


「私、洋さんを智添ちぞえにする。契約したの。認めて欲しい」


「彼は只人だよ。それは出来ない」


 雪人は軽く首を振る。


「でもっ。私、約束したの、術だって教えた」


 それでも食いつくように結愛は言い募る。じっと雪人を見つめて、一心に願う。


 天守と智添の契約は、雪人を通じて行われる。魂の集合体である彼を通じる事によって、お互いの魂を一つに近付けるのだ。


 だからこそ智添は、その霊力を天守に分け与える事が出来る。そして、時折意志さえも通じさせるのだ。


「馬鹿な事をいう。もりそえはいちど契約すればどちらが死ぬまで変わる事は出来ない。そして契約した後のお互いの力は、常に影響を与え続ける。


 彼は術を使う力を殆どもたないから、君は術を満足に修得する事さえ難しくなるだろう。霊力は多少は上がるかもしれないが、使えない力なんていくら持っていても意味がないんだよ」


 雪人は結愛をじっと見据えていた。半ば睨み付けるような視線で。しかし結愛も一歩も引かなかった。そのまま意志を見せる瞳を変えようとはしない。


「まだ今なら間に合う。僕は認めていないから、彼はまだ君の智添ではない。記憶を封じているから術だって使えないだろう。


 いいかい。天守候補生の中でいま随一の力を持つのは綾音あやねくんだ。しかし君はそれに次ぐ力を持っている。君と綾音くんの間には歳にして三つの差があるというのにだよ。


 守の民の誰もが君に期待している。君はその期待を裏切る事になるんだ。それでも彼を選ぶというのかい」


 雪人の鋭い声。それでも結愛は全く目を逸らそうとしなかった。頑固なまでに雪人を見返し続けている。

 雪人は根負けしたように、小さく息を吐き出していた。


「ふぅ。意志を変えるつもりはなさそうだね。実際、天守の術は霊力や術力よりも意志によるところが大きい。そこまでというのなら認めない訳にはいかないようだね」


「なら、いいの?」


 結愛が嬉しそうに声を漏らす。しかし雪人はうなづくことはせずに、軽く首を振るう。


「すぐにという訳にはいかない。だから今は仮に君と彼をつないでおく。でも仮とはいえ君はこれから彼の影響を受けて思うように術を使えなくなるだろう。いきなり力を失った君に辛く当たる人もいるかもしれない。


 だから、そうだな、綾音くんが天守の試練を受ける頃まで、君が一度も泣き事を言わなければ、その時に君も一緒に試練を受けさせる事にする。


 その時、もういちど出会った彼が君に力を貸す事を選んだのなら。そして試練を乗り越える事が出来たのなら、彼を君の智添として正式に認めるよ。


 ただし、彼にその事を話したら駄目だ。彼が自主的に君の為に手を貸したい。そう思えるなら、だよ。天守と智添はお互いの心でつながるべきものだから」


「わかった、私、がんばる。泣き言は言わない。泣かないように、いつでも明るくなる。ずっと笑っているから。だって、洋さんのおかげで、私、笑えたから」


 結愛は精一杯、作り笑顔で笑ってみせる。どこかぎこちない笑顔だったけども、真剣な眼差しに雪人はくすっと小さく笑ってみせた。


「私、笑っていたいから。がんばるから。洋さんと一緒にいたい」


 結愛は浮かんでくる涙をこらえながら、それでもにっこりと笑う。


 涙の理由はこれから待っているかもしれない辛さを思ってか、それとも洋の事で胸がいっぱいになったからなのか。それはわからない。


 しかしそれでも笑っていた。


「笑う、から。がんばるから。笑うから。洋さんには話さない。洋さんが一緒にいたいって思ってくれるまで、内緒にする。そしてずっと笑ってる、泣かないでがんばるから」


 同じ台詞を何度も何度も繰り返して。にっこりと泣きながら微笑む。


「期待しているよ。その時は、僕は君達の前に現れて、本当に心がつながっているかを確かめる事にする。さて、そろそろ戻ろう」


 雪人が結愛の手をとって振り返る。そして天井に向けて手をのばした、その瞬間。


「まって!」


 洋は立ち上がって大きな声で二人を呼び止めていた。雪人と結愛はその声に振り返る。


「まって。僕は、もう決めているんだ」


 そう告げる洋の身体が、少しずつ揺らめいていく。時間が急速に流れたかのように少しずつ姿を変えていく。


「僕は――決めている」


 洋の声が、やや強い口調へと変わる。

 そして子供だったはずの洋の姿が、まるで植物の生長フィルムを眺めているかのように、急速に背が伸びていた。


「思い出したよ、全て。忘れていた記憶を全て思い出した。俺はもう答えをもらっていた。俺は結愛に手を貸してやろうって、とっくの昔に思っていたんだ。だから、結愛。一緒に帰ろう。元の世界へと」


 洋の呼びかけに答えるように、結愛が微かに表情を曇らせる。


 しかしうつむいていた結愛の手を、洋はゆっくりとつなぐ。


「洋さん。でも、私、洋さんに嘘ついていました。いろいろ黙ってました。綾ちんがいったみたいに、封印するのに強い霊力がいるのは本当なんです。その為には洋さんに無理させてしまう事も、本当です」


 結愛は視線を降ろしたまま、つぶやくように答えていた。その身体が、少しずつ少しずつ洋が探していた結愛の姿へと戻っていく。


 長い髪をサイドだけ三つ編みにした可愛らしい少女の姿。色とりどりの髪紐が、どこか彼女らしく不可思議に思えた。


「でも、私。綾ちんがいうみたいに、洋さんを犠牲にしようなんて思ってないです。だって、私は。

 だって、私は。洋さんと一緒にいたいから、天守になりたかったんです」


 結愛は泣きそうになりながら、その顔を上げていた。洋をじっと見つめながら、だけど涙をじっとこらえていた。


 初めて出会ったとき。いや、本当は初めてではなく二回目に結愛と出会ったとき、結愛は泣きそうな顔でいちど洋から離れた。


 今にして思えば、それはこのままでは約束を守れなさそうになったからなのだろう。泣き言はいわない、泣かないという、馬鹿みたいな約束をずっと守り続けていたのだ。


 結愛が詳しい事情を説明しようとしなかったのも、ごめんなさいの一言も、全て約束を守るため。


 洋と一緒にいたいから。ただそれだけの為に、愚直に結愛は守り通してきた。


 思わず結愛の手を握る手に力を込めていた。馬鹿みたいに純粋に求められて、その言葉に答えずにいられる男がどこにいるんだろう。

 洋はこくりと無言でうなづく。そして雪人へと向き直る。


「もう、いいだろ。俺は俺の意志で結愛を探しに来た。こいつはずっと約束の為に、意志を通してきた。もう約束は果たされたと思っていいだろ」


 洋の送る強い意志に、雪人は大きく頷いていた。そしてその姿がそのまま揺らめいていく。


「ああ、君達はもう立派な守と添だ。僕が認めたからには、誰にも文句を言わせない」


 雪人はもうその姿を消していたが、しかし声だけは確かに響いていた。


 まるで二人を見守るような声に、洋はもういちど大きくうなづいていた。


「さぁ、結愛。戻ろう。それにさぎりと約束したからな、友達になってやるって。それも守らないといけないな」


 笑いながら告げて、腰についた紐を引き寄せる。


 その瞬間、わずかに洋の顔に歪みが生まれた。


 軽い。紐は何も抵抗もなく、するすると手元にたぐり寄せられる。そしてすぐに紐は全て洋の手元へと戻る。


 その先に、さぎりの手はなかった。

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