第5話 拾った子猫
「あれ、何か変な匂いがしませんでした?」
家への帰り道、ふと
「匂い? ああ、どっかからカレーの匂いがするな。腹減ったよ」
「そういうのでなくて……」
結愛はくんくんと鼻をひくつかせる。
犬だなこいつは、と
しかし洋がその疑問を口にするよりも早く結愛は「あっ!」と声を漏らす。かと思うと次の瞬間にはもう走り出していた。
慌てて洋も結愛を追いかける。すっかり結愛のペースに巻き込まれてるよな、と思いながらも、すでにそれが嫌でもない自分に気付いて洋は軽く苦笑を漏らした。
一、二分走ったところで、洋の家の側を流れるどぶ川の土手が見えてくる。かなり汚れた川だ。普通なら誰もこの川に入りたいとは思わないだろう。ましてやこの時期だ。水だって凍るように冷たいはずだ。
しかし結愛は川べたのガードレールを乗り越えるとためらいもせず飛び降りる。ぢゃぷんと大きく水音が響いた。
「何やってんだ、結愛」
川沿いまで辿り着いて下を眺めると、結愛がどぶ川の中を歩いていくのが見えた。おかしな奴だとは思っていたが、ここまで変だとは思いもしなかった。
だけど次の瞬間、洋はその感想を全面的に撤回する事になる。
「もう大丈夫だよ」
結愛がそう言って抱きかかえたのは、一匹の仔猫。みゅーと微かな声を漏らしていた。
ほんの小さな声。川沿いを歩く人でも気付かなかっただろう声。洋も結愛が抱きかかえたその瞬間まで気が付いてもいなかった。
恐らくは隣に転がっている段ボールに入れて捨てられていたのだろう。そこから投げ出されて中州で鳴いていたのだ。
結愛はじゃぶじゃぶと冷たい音を立てて土手へと戻ると、不意に「ふぇ」と呟いた。
どうやらどうやって登ろうか悩んでいるらしい。両手には仔猫を抱いているが、かといって手を使わず登れるほど楽な傾斜でもない。
「そいつ貸せ」
ぶっきらぼうに言い放つと、洋は結愛へと手を伸ばす。
「ふぇ?」
一瞬、何のことか分からなかったのか、結愛は首を傾けていた。
「猫だよ。猫」
「え、洋さんまで汚れちゃいますよ」
ややためらう結愛に、しかし洋はやや口調を強めて答える。
「いいから早く」
「はいっ」
結愛は大きく声を返すと、泥まみれの仔猫を洋へと手渡した。洋はその仔猫を受け取って左手で抱えると再び右手を伸ばす。
「ふぇ?」
「こんどはお前だ。手かせ」
「あ、はいっ」
洋の言葉に笑顔を浮かべながら、結愛は差し出された洋の手を両手で握りしめる。
「いくぞ」
声と共に結愛をぐっと引き上げる。思ったよりもずっと軽々と持ち上がった事に驚きながらも、しっかりと結愛を抱え上げていた。
「寒いか?」
結愛の姿をじっと見つめて溜息をつく。飛び跳ねた水で白いスカートがところどころ茶色に染まっている。
「大丈夫ですっ。これくらい寒くなんかない……くしゅん」
小さくくしゃみをひとつ。
「言ってるそばからじゃないか」
「みゅー」
洋の抱いた猫は掠れるような声を漏らすと、それから腕の中にもそもそと潜り込む。
「こいつは素直だな。寒いってよ」
「ふぇ」
結愛は目を見開いて猫を覗き込もうとするが、猫は完全に洋の腕の隙間に入り込んでいて顔を見せはしない。
「いくぞ、ずぶぬれ娘」
「ふぇ。洋さん、私そんな名前じゃありませんってば。ありません、ありません、ありませんよーっ。ゆあです。ゆあ。名前で呼んでくれないと悲しいです。悲しいですからっ」
結愛の必死の抗議をよそに、洋はすたすたと歩いていく。
「わ、無視はダメです。いじめ格好悪いですよー」
結愛はずっと抗議の台詞を言い続けながらも、洋の後ろからついて離れなかった。
「ほら、タオル。……っていうか、シャワーあびた方がいいな。なら着替えもいるか? でもな、俺んち女物ないんだよな。あ、そうそう、あとこいつも一緒に洗ってやれ」
「みゅーっ」
仔猫をひょいとつまんで結愛に手渡して、それからいくつか服を脱衣所に置いた。
「必要だったらその中から好きなの着ろ」
それだけ言い残すと脱衣所の扉を閉める。それから自分も部屋で着替えを済ませて、とりあえず居間に向かい、扉を開けた。
その瞬間だった。
「どぅわ!?」
洋は大声で叫んでいた。それも当然だろう。居間のこたつで見知らぬ若い男女が、図々しくもお茶をすすっていたのだから。
「あら、やっと戻ってきたわよ」
ウェーブの掛かった長い髪の少女が呟くと、その隣に座っている眼鏡の少年が湯飲みを置いて洋をじろりと睨む。
「やっぱり大した事ありませんね。所詮、ただの人ですか」
キリリとした意志のある瞳を、じっと洋に向けると再びお茶をずずっとすする。
「何だ。お前ら!」
あまりのふてぶてしい侵入者に、洋は声を張り上げる事しか出来ない。
ウェーブ髪の美少女はみかんをむきながら、品定めするように洋を上から下まで眺めると、ふぅんと軽く声を漏らす。
「でも力は強いみたいだけど。あの子、一か八かの賭けに出たってとこかしらね」
ふてぶてしい態度の二人に、洋は怒るやら呆れるやら、何とも言えない感情にとらわれていた。
「人んちのみかん勝手に食うな、茶飲むな!」
洋はとりあえず叫んでみるが、それでも何となくは彼等の素性の推測はついていた。恐らく結愛の知り合いなのだろうと言う事くらいは。
「……それから結構けちだという事が判明したわね」
「貧乏そうですしね」
ぬけぬけとささやくと、それからすっと二人とも立ち上がる。
「まぁ、いいわ。自己紹介くらいしておきましょう。私は
綾音と名乗った少女はそう告げると、髪をそっとなびいた。明るい髪がさっと流れる。
「僕は
冴人と名乗った少年は、片手で眼鏡の位置を直しながら洋の顔をじっと見つめると、口元に軽く笑みを浮かべる。あからさまに見下した表情だ。
「それにしても、この彼に智添が務まるとは思いませんけどね。あの人も変な奴を選んだものです」
「なんだと」
冴人の言い分に声を荒げる。何の事だかはわからなかったが、バカにされている事だけはわかった。つんとした物言いに、むっと眉を寄せる。
「まぁ、敵わないまでもせいぜいがんばってください。このままでは張り合いないですからね」
冴人はふんと軽く鼻を鳴らすと、洋を一瞥して顔を背ける。
「それじゃあ挨拶はこのくらいにさせてもらうわ。あの子の選択が間違いでなかった事を期待しているわね」
綾音はくすっと口元に笑みを浮かべると、不意にその手を胸の前へと突き出した。
「
彼女の不思議な言葉と共に、突如風が吹き始めていた。風はそのままつむじを巻くと、綾音と冴人の二人を包んでいく。
洋は突風に思わず一瞬、目をつぶってしまう。そしてその風が吹き止んで、その目を開いた瞬間。
二人の姿はもうどこにも無かった。
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