第38話 泣くことも許されない

 私だけではなく、戻ってきた私の姿を見て扉の内側に声をかけようとしていた護衛騎士の方々の動きも止まる。



 一瞬、本当にここだけ時が止まってしまったかのようで。



 けれど流石精鋭なだけはあって、立ち直りも次の行動も護衛騎士の方が早かった。


「オルランディ嬢、申し訳ありませんが今は……」

「…えぇ、どうやらお取込み中のようですし。また午後に伺いますので、私の用事はその時で構いません」

「ありがとうございます。それと、その……」


 何とか取り繕った私に、言いにくそうにしている理由はきっと……


「大丈夫です。私は何も聞かなかった。そういう事にしておきませんか?」


 王弟殿下の婚約話だなんて、本来正式に公表されるまで知ってしまっていい内容ではないはず。

 それに先ほどまでの休憩時間にその話題が一切出なかったことを考えれば、本当に私が知るべき事ではないのだろう。


「はい。それから…」

「侍女にも、一切口外などさせませんから。お義母様にもお兄様にも、このことは言わないで下さいね?」

「承知いたしました」


 護衛騎士である彼の視線の先にいるであろう彼女にも、分かっているだろうけれど一応釘を刺せば。

 当然のように頭を下げるその姿に、お二人はどうやら安心したらしい。ようやく強張っていた表情が少しだけ緩和された。


「それでは、また午後に。失礼いたします」

「はい。お気をつけて」


 お二人にしっかりと令嬢らしく挨拶をして、何事もなかったかのようにその場を立ち去る。


 でも、本当は……


 今すぐに泣き出してしまいたいほど、心の中は荒れていた。


「カリーナ!」

「お兄様…?」


 だから不自然ではない程度に、それでも足早にこの場を去ろうと思っていたのに。

 階段付近で上から下りてきたお兄様に、声をかけられて足を止める。


「良かった、まだ帰る前だったんだね」

「はい。今から一度お屋敷に戻って、午後のお菓子の準備をと思っていたところです」

「あぁ、そうか。流石にまだセルジオ殿のところまで伝言は伝わっていなかったか」


 その言い方から、どうやら私にも関係がありそうな気がして。ただその内容に心当たりがないので、全く予想がつかない。

 そのせいで無意識に首を傾げてしまっていたらしい。

 こちらに視線を戻したお兄様が、少しだけ苦笑しながら私の頭を撫でたから。


「そんなに不思議そうな顔をしなくても大丈夫だよ。実は陛下から、カリーナがお菓子の準備をする際は今まで使用していた部屋を使うようにとお達しがあってね?」

「陛下から…!?」


 待ってくださいお兄様…!!王弟殿下のお茶くみ係って、そんなに重要な仕事だったんですか…!?


「いくら陛下の側近の妹の作った物とはいえ、流石に外部から持ち込まれていることに変わりはないからね。今まで必要なかったけれど、我が家から持ち込むのなら毒見役も必要になるだろうってことで。それならいっそ今まで通り、城の中に既に運び込まれた素材を使って欲しいとのことだったんだ。まぁ確かに、我が家としてもあらぬ疑いをかけられる可能性は減らしておきたいし」


 そうか…言われてみれば、確かにそうだった。

 お城の中でさえ、前に殿下は媚薬を盛られそうになったこともあったくらいだし。それがいくら元側仕えとはいえ、今までとは違い外部からとなれば誰の手を介しているのかも分からないわけで。

 そんなものを毎日二回、一々毒見役まで立ててなんてしていたら、それだけで時間もお金もかかってしまう。

 それを考えれば、陛下の提案はもっともで。


「なるほど、分かりました」

「一応部屋の鍵は預かって来てあるし、陛下の指示で清掃も終わらせてあるそうだから。今日の午後の仕事が終わったら、鍵をかけてそのまま帰っていいそうだよ。あとは明日から、朝そちらに出勤するようにとのことだった」

「朝、とは?具体的にどのくらいの時間というのは決まっているのでしょうか?」

「そこはカリーナの作りたいものによるんじゃないかな?殿下にお出しする時間から逆算して、その日の出勤時間を自由に決めていいと思うよ?」


 それは何ともまぁ、私に都合のいい措置ですね。


「本来は令嬢がやるべき事ではないからね。ただ、その……殿下はどうにも、働きすぎてしまう方だから…。陛下もそれを心配なさって、殿下の側近であるセルジオ殿の継続の提案を通されたくらいだし。名誉職だと思って、楽しんでおいで」

「お兄様……名誉職だとおっしゃるのなら、楽しむというのは少し違う気が…」

「いいんだよ。カリーナが楽しんで働けるのならという条件で、我が家はそれを請け負ったんだから」


 お兄様ああぁぁっ!?!?それどなたに進言したんですかね!?!?話の内容からして国王陛下にですよね!?!?

 何という恐ろしい……


 流石筆頭公爵家であり、宰相家の家長。陛下相手でも、そこは譲らないんですね…。


「だから、はい。あの部屋が、今日からカリーナ専用の職場だよ」


 そう言って渡された鍵は、確かについこの間まで持っていたもので。


「それから必要な材料は、今まで通りセルジオ殿に伝えれば準備してもらえるように手配してくださるそうだから。今日は部屋にあるものだけになるけれど、明日からはちゃんと用意しておいてくださると思うよ」

「分かりました。それなら午後に間に合うように、なるべく急いで確認した方がいいですよね」

「そうだね。私もこれで仕事に戻るから」


 たぶん私が帰る前にと、仕事を抜けて急いで来てくれたんだと思う。すれ違いになってしまったら、わざわざ陛下が提案して下さった事が無駄になってしまっただろうから。


「わざわざありがとうございます、お兄様」

「いいんだよ。私としても、仕事中に可愛い妹に会う口実が出来たのは幸運だったからね」

「もうっ!からかわないで下さい、お兄様」

「本心なんだけどなぁ?」


 そう言ってちょっとだけ困ったような顔をして首を傾げる姿は、どう見ても美青年なんですが。

 何というか、殿下といいセルジオ様といいお兄様といい…高位貴族の男性は、見目麗しい方しかいらっしゃらないんですかね?目の保養なので、私としては問題ないんですけれども。


「それじゃあね、カリーナ。また夜に」

「はい。お仕事頑張ってきて下さいね、お兄様」

「あぁ。カリーナもね」


 そう言って足早に階段を上っていく後姿を見送って。私は渡された鍵を握りしめて、公爵家へ移って以来一度も訪れていなかった部屋へと向かうのだった。


 歩きなれた道を迷いなく、けれどどこか懐かしく思いながら歩みを進める。

 毎日ここだけを往復して、時折お城の厨房に顔を出して。そんな日々が、なんだか遠い過去のように思えてしまうほどに。

 私の生活は、一気に変わってしまったから。


「お嬢様。念のため先にお部屋の確認をさせていただいてもよろしいですか?」

「え?あぁ、そう、ですね……お願いします」

「では、失礼いたします」


 今の今まで気配を消していた侍女は、とても優秀な人なんだろう。お兄様の後ろに誰もいなかったから、つい二人だけだと錯覚してしまっていたくらいだったから。


 そんな彼女の念のため、は。流石にお城の中だから何もないとは思うけれど、仕事として異常がないかと部屋の間取りを知っておきたい、という意味なのだろう。

 それが分かったから、私は素直に彼女に鍵を渡す。


 考えてみたら、扉一つ開けるのだって本来令嬢がやるべき行為ではないのだろう。

 お屋敷では必ず誰かが傍にいて、一人になれるのは自室の中くらいのものだったから。


「っ…」


 だから、きっと…。

 私の今のこの胸の内を吐き出せる場所は、どこにもない。


「お嬢様、確認が終わりました」

「ありがとうございます。…あぁ、少しだけ休んでもいいですか?奥の寝室にいるので」

「承知いたしました。私はこちらで待機しておりますので、何かあればお呼びください」

「はい」


 お屋敷に帰ったら、それはそれで沢山の人にまた囲まれることになるだろうから。


 せめて今だけは、一人になりたくて。


 宣言通り寝室に一人入って、扉を閉めて。

 そこで座り込んでしまいたくなるのを必死に抑えて、何とかベッドの端までたどり着いてそこに腰かける。


「で、んかっ……」


 何も聞かなかったことになんて、出来るわけがない。


 だってあのセルジオ様が、扉の外にまで聞こえるほど大きな声で驚いていたのだ。それはつまり、打診ではなく決定事項として伝えられたということなのだろうから。


 今まで婚約者の候補すらいなかったことがおかしいのだから、殿下の婚約はおかしな話ではない。むしろ前々から話が進んでいたのかもしれない。だから今更驚くことの方がおかしいんだって、ここ最近ずっと受けていた令嬢教育からは簡単に答えが導き出せるのに。



 心だけは、それについていかない。



「殿下……殿下っ…」


 伝えることも出来ないまま破れてしまった恋心を抱えたまま、それでも私は泣くことも許されない。


 だって今涙を流してしまえば、きっと寝室の外に控えている彼女に何があったのかと聞かれてしまう。

 それに何より、泣きはらした目で殿下やセルジオ様の元へ行くわけにはいかないから。



 吐き出すことも出来ないまま、けれど抱えきれないほどの痛みを隠して。


 私はしばらく膝を抱いたまま、そこから動けなかった。



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