第37話 王弟殿下の婚約

 翌日から再び、午前と午後の二回殿下にお茶を淹れることになって。ただ今までとは違い、流石にあの部屋を使う許可が下りているわけではないので。とりあえずは公爵家の厨房で用意したお菓子を、殿下のところへ持っていくということにした。


 この辺りのことについては、今後どうするのか考える必要があるみたいだけれど。そこは私ではなくお兄様の仕事らしいので、お任せすることにして。まずは何を作るのかを、厨房にあるものを見せてもらってから考える。


 馬車での移動を考えれば、お城までかかる時間と揺れに耐えられるお菓子でなければいけない。そうなるとしぼんでしまうグジェールは不向きだろうし、繊細なポテトクリスプなんかも揺れた際に割れてしまうかもしれない。何よりまだ何一つ慣れていないお屋敷の厨房だから、そもそも難しいお菓子をいきなり作るのはやめておいた方がいいだろう。


 そんな風に色々と考えた結果。


「原点に戻ってしまった…」


 目の前にあるのは野菜のクッキー。一番最初にシスターが教会で出して、殿下が殊の外気に入ったというそれ。

 不思議なもので、たったこれだけのお菓子が私の生活をここまで変えてしまうことになるなんて、孤児院にいた時は思いもしなかった。まさか自分が公爵令嬢になる日が来るなんて、想像したことすらなかったから。


「午後の分は、また帰ってきてから考えた方が良さそう」


 一応厨房の中は一通り見させてもらって、どんな道具とどんな材料があるのかはある程度把握できたから。この中から今日中に作れそうなものを考えるのは、そんなに難しいことではなさそうだった。

 何せ公爵家の厨房。正直無い物の方が少ない。


「お嬢様。そちらお持ちします」

「はい。お願いします」


 小さなバスケットに、丁寧に包んだクッキーを入れて。それを執務室の前まで運ぶのは、私ではなくて私付きの侍女の役目。基本的に令嬢というのは物を持たないのだそうだ。

 私の荷物なんてないので、そのバスケットだけを持ってもらって。いつもの時間に間に合うように、私たちは公爵家の馬車に乗り込んだ。


 ちなみに。

 今日の私は令嬢仕様なので、ちゃんとしたドレスとお化粧に、髪も結い上げてある。

 とはいえ今まで休日にしていたようなハーフアップを、編み込みにしてもらっただけのシンプルなものだけれど。


 少しだけ不満そうな顔をしていた侍女たちは、どうやらもっと着飾らせて香水までつけようとしていたみたいだけれど。お菓子や紅茶を殿下にお出しするのに、化粧や香水の香りでダメにしてしまったら意味がないからと流石に断った。髪飾りやら装飾品やらも、紅茶をお淹れするのに邪魔になっては嫌だからと断った結果、彼女たちからすれば王弟殿下にお会いするのに最低限以下の格好になってしまったと悔しがっていたけれど。

 私は今までお仕着せ姿で殿下にお会いしていたわけだから、これで十分すぎるくらいですと笑っておいた。


 そもそも令嬢が貴人と会う時に着飾るのは、自分をよく見せようとする見栄の部分が大きい。

 貴族社会ではそれが大事なのは分かっているけれど、今回に限ってはそういう意味合いを含んでも意味がない。

 だって殿下は、平民時代の私を知っているのだから。


 そんなわけで、出来得る限りシンプルな格好で登城することにしたわけだけれど。

 私からすれば、これだけでも十分豪華だった。


「お待ちしておりました」

「セルジオ様…!お久しぶりでございます」


 流石に王家の馬車程ではないけれど、それでも十分すぎるくらい快適な馬車に乗ってお城の車寄せに辿り着いた私たちを迎えてくれたのは、殿下の側近であるセルジオ様ご本人だった。

 早速令嬢教育の見せ場と思い、ドレスの裾をつまんでお辞儀をしてみせる。


「えぇ、本当に。それに立派な令嬢に成長されているようで…」

「まぁ。ありがとうございます。でもまだまだですから。今後もさらに精進していく所存です」


 褒められたことは素直に嬉しい。

 けれど私にとっては殿下やセルジオ様、それにお兄様やお義母様がお手本であり目標だから。少しでもそこに近づけるよう、この先も努力を怠るわけにはいかない。


「流石ですね。ですが……あぁ、このような場所でご令嬢と立ち話などいけませんね。私としたことがすみません」

「いいえ、お気になさらず。久々にセルジオ様にお会いできて、私もつい嬉しくなってしまったので」

「……その言葉は、私ではなく是非殿下にお伝えいただけませんか?貴女が来ると知って、とても楽しみにしておられましたから」

「殿下が…?」


 きっとそこに、深い意味などない。お菓子を楽しみにしているだけの可能性の方がずっと高いと分かっている。

 それでも、殿下が楽しみにしてくれているというだけで。

 嬉しくなってしまう私はきっと、とても単純なんだろう。


「はい。では、参りましょうか」

「はい」


 セルジオ様に促されて、久々に歩くお城の中。


 そういえば、今日降りた場所はまた前のように人がほとんどいなくて。けれど歩いていく景色は、今までとはまた違う。

 一体このお城にはいくつ出入り口があるのか。今後案内なしに、迷わず殿下の執務室までたどり着くことが出来るようになるのは果たしていつになるのか。正直少し不安になったことは、とりあえず黙っておこうと思った。


「殿下。カリーナ嬢をお連れしました」

「あぁ、入れ」


 扉越しに聞こえてきた声に、胸の鼓動が早くなる。

 ワゴンはセルジオ様が運んでくださるとのことだったので、私は促されるまま護衛騎士の方が開けて下さった扉の向こうへと足を進めた。


「殿下」

「久しぶりだ、な――」

「はい、お久しぶりでございます」


 顔を上げた殿下と、一瞬だけ目が合ったけれど。すぐにスカートの裾をつまんで、本日二度目のご挨拶。

 セルジオ様に対して取った礼よりも、ずっと深く頭を下げて。貴族令嬢としての、最高礼を。


 そもそも本来はいくら面識があるとはいえ、王族の方に執務室で直接お目通り願うなど普通令嬢としてはあり得ないのだとか。

 今回私は今までの実績もあるので、特別措置という形になっているそうだけれど。確かにこんなにも機密事項が多そうな部屋に、一貴族の令嬢を入れるというのはないことなんだろう。

 そしてだからこそ、私はしっかりと王弟殿下への、王族への敬意を払わなければいけない。

 それが家のためでもあるし、何より貴族として生きる以上私がしなければならない最低限のことなのだろうから。


 そう、思っていたのだけれど。


「……驚いたな…まさかここまでの逸材だったとは…」

「え、あの……で、殿下…?」



 なぜ、殿下は、こんなにも、近くで。


 なぜ、私の頬を、両手で、挟んで。


 私の目を、覗き込んでいるのだろう…?



「殿下…?確かに立ち居振る舞いが洗練されて、立派な令嬢になられているとは思いますが…」

「いや、そうではない。…あぁ、いや。確かに見た目は立派な令嬢ではあるが、それ以上に……」


 え?え?それ以上に、何ですか…!?

 待って待って…!!いい方!?悪い方!?どっちなんですか、殿下…!!


「そうか…。は、私にしか見えないのだったな……」


 いやいや、一人で納得していないで説明してくださいよ…!!

 あとなんか恥ずかしすぎて、でも淡い瞳から目が離せなくて……。

 ど、どうすればいいのか分からないっ…!!


「だが、まぁ……この場所でまで繕わずとも良い。私とセルジオしかいないのだ。今まで通りで構わぬ」

「今まで通り、ですか…?」

「あぁ。……いや、だが…そうだな…」


 何かを考えるように呟きながら、ようやくその手も瞳も私から離れてくれて。


 やっと、息が付ける。


 今まではドキドキしすぎて、まともに呼吸すら出来ていなかったんじゃないだろうか?

 それなのに。


「カリーナ」


 名前を呼ばれたと思ったら、なぜか殿下はソファに座って隣の席を手でポンポンと叩いていて。


「え、っと……」


 知ってる。この仕草は、隣に座れという無言の指示。

 でもそれは、忙しすぎて手が離せないから仕方なくしていただけで……まさか、あーん再来…!?!?


「筆頭公爵令嬢を立たせたままというわけにはいかぬであろう?今後はここが、君のいるべき場所だ」

「…………え……?」


 それ、は…え~っと……


「雑務に関しては私がしますので、カリーナ嬢は紅茶の用意だけをお願いできますか?あぁ、今後は二人分ご用意しますので」


 私も一緒にティータイムですか…!?いやいや、それは…!!


「わ、私はここにお仕事に来ているのであって、決して殿下とお茶を楽しむためでは…!!」

「えぇ、分かっております。けれど貴女は側仕えではなく、公爵令嬢としてこちらにいらっしゃるのですから。他は今までと同じで構いませんが、そこだけはどうかご容赦いただけませんか?殿下の面子というものもありますし」

「っ…!!」


 そう、言われてしまえば。

 私が殿下の、王族の面子を潰すなんてこと、出来るわけがない。納得するしないの問題ではなく、もちろん私の気持ちの問題でもなく。

 私が取れる行動は、ただ頷いて大人しく殿下の隣に腰を下ろすこと、ただそれだけだった。


「わかり、ました」




 そんな風に、久々のお仕事が以前とはだいぶ違うものになってしまったから。

 お義母様とお兄様から言われていた伝言を、殿下とセルジオ様に伝え忘れてしまった。


 午後でもいいかとも思ったけれど、予定を組むことを考えたら早い方がいいかもしれないと思い急いで戻った先で。



「殿下がご婚約ですか!?」



 扉越しに聞こえてきた、セルジオ様の驚いたような声に、その内容に。


 こんなにも衝撃を受けることになるなんて、思ってもみなかった。





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