第33話 膝枕と甘い顔

 心臓が痛いほど音を立てる。



 血の気が引いて、耳鳴りがする。



 流石に男性一人持ち上げるのは難しいのか、殿下の腕を自分の肩に回してセルジオ様は立ち上がったけれど。

 そこでようやく見えた殿下の顔は真っ青で、どう考えても健康とは程遠い色をしていた。


「で、んか……」


 衝動的に駆け寄りたくなった心とは裏腹に、足は一歩も動こうとはしてくれなくて。

 まともに声も出せないまま、呼びかけた声は情けなく掠れて震えていた。


「殿下っ…!」

「ぅ……騒ぐな、セルジオ…ただの立ち眩みだ」

「ただの立ち眩み程度で倒れられるわけがありません!!一度侍医を呼んでしっかりと診てもらうべきです!!」

「だから騒ぐなと…」

「どうかいたしましたか!?」


 先ほどのセルジオ様の切羽詰まったような声が聞こえていたのだろう。扉が開いて、護衛騎士の一人が顔を覗かせる。


「何でもない。気にするな――」

「いえ!殿下は一度ご自分の顔色を鏡でご覧になるべきです。とにかく侍医を呼びましょう」

「こちらでお呼びしますので、セルジオ様はそのまま殿下のお側に」

「えぇ。頼みましたよ」

「はっ!」


 セルジオ様と護衛騎士の二人の間で進む会話。

 けれど、私はそれどころではなかった。

 なぜなら顔を上げた殿下と目が合って、今度は違う意味で動けなくなっていたから。


 驚きによってなのか、見開かれていく淡い色の瞳は。

 ただひたすらに、こちらを見ていて。


「……カリーナ…?」

「…は、い……でんか……」


 まだうまく喋れなくて、けれど殿下に呼ばれたのに返事をしないという選択肢は私の中に存在していなくて。

 ほんの一瞬だけ、その淡い色が揺れたように見えた、次の瞬間。


「っ…!?」

「カリーナ……」


 なぜか私は、殿下に抱きしめられていた。


「で…でんかっ…!?」

「これは、幻か……?」

「いや、あのっ…」


 何が起こっているのか分からないまま、それでも何とか言葉を続けようとした私を抱く腕の力が、いっそう強くなって。


「幻でも、構わぬ……もう、消えてくれるな……」

「っ!!」


 耳元で聞こえてくるその声は、今まで聞いたことがないほど弱々しくて。

 それなのに掠れた囁きが、妙に色っぽくてドキドキする。


「帰ってきてくれ、カリーナ……私の元へ、どうか…………」

「ぁっ……」


 その言葉に、泣きたくなる。


 分かってる。特別な意味なんてない。

 ただ殿下たちからすれば、ある日突然私が居なくなったのだから。

 心配させてしまっていたのだろうって、だからこんな言葉が出てくるんだって、分かってる。


 分かってる、けれど。


「で、んかっ……!」


 今、思い知った。


 私の恋心は、あの部屋なんかじゃなく。



 殿下の傍に、置き去りにしてきていたのだと。



 だって今、すごくドキドキしてる。

 叶わないって、どうにもならない恋だって、分かっているのに。


 どうしても、止められない。


「あ、の……殿下…」


 でもだからって、このまま幻だと思われていても困る。ちゃんと謝罪して、これからのことを考えないといけないのだから。

 そう思って、何とか呼びかけたのに。


「え…あ、あの……あれ…?」


 なんだか、様子がおかしい。


 と、言うか……


「あっ、わっ…!!で、殿下っ…!!待って、むり…!!せ、セルジオ様ぁ…!!」


 だんだんと重くなってくるその体を、私一人の力では支えきれなくて。

 手を伸ばして何とかセルジオ様に助けを求める。


 そこでようやく気付いてくれたのか、急いで駆け寄ってきて殿下ごと私を支えてくれた。


「大丈夫ですか?」

「な、なんとか……」

「侍医が来るまで殿下には仮眠室でお休みいただいた方がいいでしょうから、お連れしますね」

「はい、お願いしま……す…?」


 そこでようやく、二人して気づく。

 殿下の手が、私の腰あたりの服をしっかりと掴んでいることに。


「…………カリーナ嬢……」

「……はい…」

「……流石に、その服は脱げませんよね…?」

「ぬ…!?む、無理です…!!」


 これはワンピースだし、あとは下着しか身に着けていない。今ここでこれを脱いだら、私はみすぼらしい下着姿をセルジオ様に晒してしまうことになるわけで…!!


 そんな恥ずかしいこと、死んでも嫌だ…!!


「いえ、その…失礼しました。そんなことを貴女にさせたと殿下に知られたら、流石に私の首も危ないでしょうね。……現実的に」

「現実…!?」


 それは比喩ではなく、本当にセルジオ様の首が飛ぶということですか…!?やめてください…!!そういう恐ろしいこと言うの…!!


「とはいえ……流石に仮眠室で殿下と二人ベッドに入って頂くというのも、こう…」

「だ、ダメです…!!」

「ですよねぇ?あぁ、いえ。私としては一向に構わないのですが…」

「そこは気にしてくださいお願いですからっ…!!」


 こんな時にそんな軽口を言っている場合ですか!?

 というか少し仰け反った体勢のままなので、今もかなりきついのですが…!?


「仮眠室で服を着替えていただくというのも出来なくはないでしょうが…その間に侍医が来る可能性がありますし、何より殿下が果たして貴女を離してくださるかどうか…」

「むしろ今現在、一切身動きが取れないのですが…?」

「ですよね。……仕方ありません。殿下には申し訳ありませんが、今回ばかりはソファでお休みいただきましょう」




 そして、結局。



「…………セルジオ様……これは俗に言う、膝枕、なのでは…?」

「そうですね。ですがクッションも使っているので、流石に直接脚の上に頭を乗せているわけでもありませんし」

「そう、ですけれど……」


 ソファに横になる殿下の腕は、相変わらず私の腰にまわったまま。離してもらえる気配なんて微塵もないまま、セルジオ様の提案で膝枕が決行されることになったのだった。


「これ、大丈夫でしょうか?」


 主に絵面と殿下の肩。

 絵面は、まぁ…誰にも見られなければ、何とかはなるだろうけれど。流石に不自然な格好になってしまっているので、肩をおかしくしてしまわないか心配になる。


「大丈夫ですよ。今朝までの殿下のご様子の方が、よっぽど大丈夫ではありませんでしたから」

「うっ……なんか、すみません…」


 笑顔だけど目が笑ってないセルジオ様の言葉は、明らかに棘があった。

 それはつまり、何も言わずにいなくなった私が原因だと言外に伝えているんですよね?


「本当に。突然いなくならないで下さい。私も、殿下も………いえ。私以上に、殿下がとても心配なさっていて……」

「セルジオ様……?」


 途中で言葉を切って、その瞳がジッと私の方を静かに見ていて。

 そこに宿る感情が何なのかは分からなかったけれど、ただ見られているだけというのもなんだが居心地が悪くて声をかけたのに。


「貴女はきっと、分かっていらっしゃらないんでしょうね……」

「え…?」


 そんな言葉を投げかけられる。


 どういう意味なのかと、口を開きかけた。

 その時。


「っ…!?」

「……あたたかいな…」


 なぜか頬に、殿下の大きな手のひらが当てられていて。


「で、んか…?」

「それに、柔らかい……」


 そう言いながら、殿下は親指で優しく私の頬を撫でる。

 まるで、慈しむかのように。


 今までとは違いこちらを見上げてくる殿下の瞳は緩く細められていて。



 そして何より、とても甘い顔をしていた。



「夢ならばいっそ、このまま目覚めぬままであれば良いのに……」

「っ!?!?」


 一体何が起こっているのかも、どうして殿下がそんなことを言っているのかも分からないけれど。私はその唐突な行動に頭も体もついて行けていなくて、ただただ動くことすら出来ずに固まったままだった。


 なのに殿下は満足したのか、それとも今度は睡魔に襲われたのか。

 静かに手をおろすと、そのまま穏やかな寝息を立て始めてしまって。


「おや…。どうやら寝ぼけていらしたようですね」


 そんな呑気なことを言う余裕があるセルジオ様とは反対に、私は真っ赤になってしまった顔を隠すことも出来ないまま。


 呼ばれていたお城のお医者様が到着するまで、殿下の整った寝顔を見つめ続けるしか出来ないのだった。




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