第30話 主に唯一の幸せを -従者視点-

 カリーナ嬢が消えたあの日から、殿下の顔色は悪くなる一方だった。


 もともと無茶な執務の仕方をする方ではあったけれど、彼女が来てからは必ず午前と午後の二回休憩を取ってくださるようになって。その上紅茶と茶菓子での食の癒しを受けていたからこそ、より質の高い休憩になって執務の効率が上がっていただけなのだ。元来働き過ぎる方だから、それが突然無くなってしまえば当然無理が出てくる。


 それでもやめようとしないのは、それが日常になっていたからだけではないのは痛いほどに分かっている。分かっているからこそ、お止めすることも出来なくて。


「殿下、お時間です」

「……あぁ」


 たったそれだけの返事で席を立つと、迎えに来た侍従に連れられて昼食へと向かう。以前と違い食事だけは文句を言わず摂って下さるようにはなったけれど。それでもだいぶ量が減っているとは聞いている。

 変わらずに整えられた机の上や、席を外すときでさえご自身で常に同じ位置に椅子を戻されているのを見れば、一見普段と何一つ変わらないように思えるけれど。これはただの習慣であり警戒心の表れでしかないと知っている身としては、何一つ安心できる要素になどならなかった。


「はぁ……」


 今のうちに終わった書類をまとめて、必要のなくなった資料を破棄して。そうやって午後の執務が滞りなく進むように準備をしておくのが私の仕事だけれど、これはただ殿下のお手を煩わせる時間を減らしているだけに過ぎない。

 私には正しい意味で、あの方をお支えすることなど出来ないのだから。


「どこにいらっしゃるのですか、カリーナ嬢…」


 ただ一人、殿下のお心を動かせる人物に思いを馳せる。決して本心を口にはなさらない殿下が、彼女と共にある時だけは素直な笑顔を見せていたというのに。


「殿下にとって貴女は必要な存在なのです。戻ってきていただかなくては、いずれ殿下は…」


 倒れてしまわれる。


 体が先か、心が先か。

 どちらにしても、限界が来る日はそう遠くない。

 今は薄っすらとしか見えない目の下のクマも、疲労の色も、彼女が居なければ濃くなる一方だろうから。


 けれど第三者が関わっていたと判明したというのに、結局彼女の行方は依然として知れぬまま。ようやく得られた目撃情報のような物は、城の入り口の門番の証言ただ一つ。粗末な服を着た女が城の中から出てきて、鞄一つだけを抱えて城の高い場所を見上げていたと。本当にそれだけだった。


 それでも髪の色や服装などは一致するので、その後の足取りを探ろうとしてみたものの。既に日が経ちすぎているのか、それともその後すぐに何事かがあったのか。結局その先の市井での目撃情報は得られなかった。とはいえ余程特徴的な何かがなければ、そうそうすれ違っただけの相手やただの買い物客など一々覚えてはいられないのだろうが。

 さらに孤児院にも戻っていないようだったので、一応ここ数日の王都から出て行った者のリストも探ってはみたが。そこにも名前はなかった。


「せめてどこの落としだねなのかさえ判明していれば、まだ……」


 手の打ちようはあっただろうにと、思わずにはいられない。


 無事かどうかすら分からないこの状況では、余計に殿下は心配なさるだろうから。

 口には出さないけれど、時折窓の外を見る目が険しくなっているのを私は知っている。そして必ず何かを堪えるように一度強く瞼を閉じられたかと思えば、感情を全て押し隠して書類へと目を移して執務を再開して。


 そんなことをもう、何度も何度も繰り返している。


「ようやく……ようやく、王弟妃になれる存在が現れたと思ったのに…」


 あの才能が、血脈が。市井出身であるという欠点全てを覆い隠してしまうほど、大きなものだというのに。

 何より殿下ご自身が可能性としてそれを口にされた。それだけで他の誰とも違う、誰よりもその場所に近い人物であったはずなのに。


「何も知らず、王家に盾突くような真似をして……殿下直々の命などなくとも、許すつもりは毛頭ありませんよ」


 王家の血を、血の奇跡を。知ってか知らずか、その王族の手の内から掠め取るように取り上げて。その意図が何であるにせよ、行為そのものは反逆罪そのものだ。

 何より彼女は、殿下にとっての唯一の存在。他に替えなどきくものではない。


「どうか……どうか我が主に、唯一の幸せを……」


 他の誰でもない彼女を、どうか殿下の元に返して欲しい。

 少なくとも門から出た後に城を見上げていたということは、彼女の中に何かしら思うことがあったはずだから。それが後悔なのか哀愁なのか、はたまた他の理由だったのかは分からないけれど。全てなかったことにして、何の未練もないとは考えにくい。


「そう考えられるだけ、まだ救いはあるのかもしれませんね…」


 そう思いながら最後の資料をまとめ終わった時だった。執務室の扉が軽くノックされ、聞きなれた声で呼ばれる。


「セルジオ様。今よろしいでしょうか?」

「どうしました?」

「お客様がお見えになっておられるのですが…」

「…?予定には何もなかったはずですが?」

「はい。ですが、その……」


 歯切れの悪い護衛騎士の様子に、どうやら無視できないような相手の訪問のようだと当たりをつける。

 急ぎの用であれば困るので、殿下が不在の今私が対応するしかないのだろう。そう思ってこちらから扉を開けた先、そこに立っていたのは確かに護衛騎士が無視できないような、予想もしていなかった相手で。


「コラード殿…?」


 金の髪に濃い青に近いグレーの瞳を持つ彼は、コラード・オルランディ殿。

 筆頭公爵家であり宰相家でもある、オルランディ家の嫡男。


 現在は亡くなった前宰相の代わりにその地位に一時的についている叔父の元で、陛下の側近として日夜業務に励んでいると聞き及んでいる。

 数年後には宰相の座を継ぐ予定の彼は既に妻もいて、現在は出産のために里帰り中だという所まで噂話の一環のように城の中に広まっているけれど。逆に言えばそんな人伝ひとづてに聞くような内容でしか知らないほど、顔見知りだが接点がほとんどない相手とも言える。



 そんな方が、どうして突然…?



「前触れもないまま突然の訪問、大変失礼いたします。ですが陛下より、急ぎ説明をとの命を拝しまして」

「…なるほど。しかし申し訳ありませんが、現在殿下は出ておりまして…」

「承知しております。ですがアルフレッド殿下とセルジオ殿のお二人ともに、それぞれ別の言伝ことづてを預かっておりますので」

「私にも、ですか?」


 それは陛下から、ということで間違いないはず。

 ただ殿下に対して言伝をというのは分かるとして、どうして私にまで陛下から直々に?


「アルフレッド殿下への詳しい説明は私にせよとの陛下のお言葉ですので、こちらでお帰りを待たせていただくことは可能でしょうか?」

「陛下からのお言葉でしたら、それは構いませんが…」


 ここで待つよりも、直接殿下の元に人をやった方が早いはずなのに。それをしないということは、余程口外するわけにはいかない内容なのだろうか。

 とはいえ流石にこのままというわけにもいかないので、執務室の中でお待ちいただこうと扉を開けたのだけれど。


「いえ、結構です。外で待たせていただきますので」

「ですが…」

「それからセルジオ殿。陛下より、急ぎ馳せ参じよとの事ですので。どうか私のことはお気になさらず、すぐに陛下の元へお願いいたします」


 主従の関係上、先に殿下への用件を伝えるのが義務なのは分かる。ただそういうことは、なるべくなら早く言って欲しかったと思ってしまうのは致し方ないことなのだろう。

 そしてだからこそ、コラード殿は外で待つと宣言したのだ。機密事項が山ほどある執務室の中、殿下の側近でもない人間が一人勝手に入るわけにはいかないということをしっかりと弁えているから。


「承知いたしました。では、失礼させていただきます」

「はい。……セルジオ殿…!」


 失礼にならない程度に急ぎ足で歩き始めたところで、なぜか後ろから声をかけられて呼び止められる。

 何事かと振り返った先で、グレーの瞳が驚くほど真剣な目をしてこちらを見ていて。


「どうか、よろしくお願いいたします」


 そう言ったかと思えば。

 深々と、頭を下げられる。


「コラード殿…?」


 驚きと疑問を乗せたまま呼びかけるけれど、彼は一向に頭を上げる気配も見せず。仕方がないので簡単に声だけかけて、そのまま先を急ぐことにした。


「何事があったのかは分かりませんが、私に出来ることならば全力を尽くしましょう。それでは、失礼します」


 私だけではなく殿下にもということは、きっと何かしら大きな問題が起きたのだろうから。殿下に関わることであるのならば、私が手を抜く理由などない。何より陛下からもたらされた問題であるのならば尚更だ。


 ただ一つ、気がかりがあるとすれば。

 今の殿下に、これ以上負担になるような何事かだけは増やさないで欲しいということ。


 それでもきっと私のそのささやかな願いは叶えられないのだろうと思いながら向かった先で、思ってもみなかった真実を知ることになるなど。

 この時の私はまだ、予想すらしていなかったのだった。





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