第29話 夢にまで見るのは… -王弟殿下視点-
ふわりと笑う顔。伸ばされる腕。
細められたヴェレッツァアイが、愛おしさを湛えてこちらに向けられる。
それら全てが虚構だと分かっていても、私は手を伸ばさずにはいられない。
「カリーナ…!!」
掻き抱いた体は、前に一度だけ持ち上げたことがあるから思い出せるだけで。けれど正確な柔らかさも体温も、何一つ伝わってはこない。
その証拠に、触れた頬の感触は何一つ分からないままで。
あぁ、まただ、と。心のどこかで思いながら、それでも目の前の彼女を手放せない。
「カリーナっ……私の、最愛っ…」
呼びかけても、ただこちらを見上げて笑いかけるだけ。それこそが、虚構だという何よりの証拠だと言うのに。
頭での理解と、心からの感情は。どうやったって一致してはくれないのだ。
「帰ってきてくれっ…頼む、カリーナっ……私の元へ、どうか…どうかっ……!」
それでも呼びかけずにはいられない。懇願せずにはいられない。
何一つ返答すらないと、私は既に知っているはずなのに…。
「殿下……」
「え…?」
だから聞こえてきた声に、久々に聴いたその響きに驚いて、思わずその顔を凝視してしまう。
「会いたいです、殿下……迎えに、来てください…」
「…………はっ……はは…はははっ…」
壊れたように笑うしかないのは、これが私の願望だと分かっているからだ。
「私は……そんな浅ましいことを思っていたのか…。こんなことを、彼女に言わせたいと……」
言うわけがない。あのカリーナが、そんなことを言えるわけがないのだ。
それは、私が一番よく知っていたはずなのに。
「求めるだけでは飽き足らず、彼女からも私を求めろと…そう、思っていたというのか。私は」
もはや止められぬ想いだということはとうに自覚している。
だがまさか、そこまで欲深くなっていたとは。
本人が、いないというのに。
「殿下…?」
見上げてくるヴェレッツァアイに、その濡れたような瞳に。思わず吸い寄せられそうになるのを、理性で抑えこむ。
抱きしめても頬に触れても伝わってはこない彼女のぬくもりに焦れて、ついその可憐な唇に口づけたくなるが。いかな幻と言えども、流石にそこまでするわけにはいかぬ。
もしかしたら既に彼女は他の男の手に落ちているかもしれない。それは分かっている。
けれどだからこそ。
だからこそ、私は彼女を穢したくなかった。
一度だけ不意に触れてしまったあの唇の柔らかさもあたたかさも、この指先が覚えているから。きっと口づければ再現されるのだろう。嫌というほど、鮮明に。
それも分かっていた。
だがそれは、願望で終わらせてしまいたくはないのだ。
出来ることならば、本物の彼女と。
そう、思った瞬間。
「……やはり、夢だったか…」
見慣れた光景が目に入って、ここ数日眠るたびに見る夢だったのだと再確認する。
サイドテーブルに置いてある時計を確認すれば、まだ夜中だというのに。これもまた連日通り、完全に目が冴えてしまって。もう一度眠りにつけそうにはない。
「カリーナ……」
もはや何度呟いたのかも分からない彼女の名前が、するりと口をついて出てくる。
昼間に彼女が着ていたお仕着せが見つかったせいか、どうしても意識がそちらに引っ張られてしまっているようで。だからこそ夢の中であんな事を言わせてしまったのだろう。
「今、どこにいるのだ……」
そもそも無事なのだろうか?嫌な思いや怖い思いはしていないのだろうか?
私のことを、少しでもいいから思い出してくれてはいるのだろうか?
「……何を、馬鹿な事を…」
彼女の瞳に熱が宿っていたことなどない。
幼い頃から向けられていたあの視線は、もはや危険を察知するための一つの指標になっていて。だから敏感になっていたからこそ分かる。彼女からあの目を向けられたことは、一度としてない。
彼女はただひたすらに穏やかで、私の方が熱を持って彼女を見つめていたくらいだ。同じ物を返されたことなど、あるわけがない。
それでも、夢にまで見るのは……
「愛している…愛しているのだ、カリーナっ…」
伝えることすら出来ないこの想いは、ひたすらに私の中で熱を持って暴れまわる。それを抑え付ける術だけは、私も知り得ないままで。
苦しさに耐えきれずに胸元の服を掴んでも、心の中までは掴みきれない。
ぐしゃりと乱暴に掴んだ前髪は、きっと跡一つ残らず流れてしまうのだろうが。その感触は、以前一度だけ触れた事のある彼女の髪を、どこか…思い出させる。
最近は気を遣っているのか、ダニエルも寝室にまでは入って来ない。だからこそ余計に気が抜けてしまっているのかもしれない。私の本心を、兄上に知らせるような存在がいないのだと。
いや。もしかしたらダニエルが居ようが居まいが関係ないのかもしれない。
無意識に見ているはずの夢に、カリーナが居なくなったあの日から毎夜彼女が出てくるようになったほどなのだから。
そうして夢の中での勝手な逢瀬を終えて、眠れないまま朝を迎えて。寝不足のまま執務に向かう。
もうそれを繰り返して何日目なのかも、既に数えるのをやめてしまった。
今日もまた、色褪せた世界が始まる。
そう、思っていたというのに。
「殿下、一つ確認していただきたいものがございます」
「何だ?」
改まってセルジオが差し出してきたのは、一枚の紙きれ。書類ですらないそれを怪訝に思いながら受け取って、そこに書かれた文字を見る。
『ごめんなさい。さようなら』
ただそれだけが書かれた紙。だが何かが引っかかる。
「これが?」
「カリーナ嬢の残して行ったのであろう、置手紙です」
「カリーナの…?」
そう言われて、もう一度紙に目を落として。
そこに書かれている文字を追って…。
違和感が、確信に変わる。
「……違う…」
「殿下…?」
「これは……この字はカリーナのものではない…!!」
彼女の文字は確かに綺麗だけれど、もっと伸びやかだった。こんな風に型にはまったような、貴族令嬢が書くような文字ではなかったはずだ。
断言できるが、同時に証拠も出せる。何せ私の手元には、書き写し終わったらしいレシピ集の原本が戻ってきているのだから。
けれど、だからこそ。
あの日置かれていた手紙が、本人が書いたものではないと断言できるからこそ。
第三者の関与を、今までで最も証明できる事になった。
「セルジオ!急いで当日の詳細を洗い直せ!」
「はっ。ですが、もしもの場合は…」
「まずは探して連れ戻せ!無事であるかどうかすら――」
自分で言っていて、一瞬言葉に詰まる。
本当に、最悪の事態だったら?
既に、手遅れだったら?
「ぁ……」
「すぐに調べて参りますので!!どうか殿下は普段通りにお過ごしください。いいですね!?普段通りですよ!?」
珍しく声を荒げて出ていった側近は、私のこの感情になどとっくに気づいている。その上で見て見ぬふりをしながら、さりげなく協力してくれていたのだ。私がそれを彼女に告げる気がないことも知った上で。
けれど、今となっては。こんな風に、安否すら分からなくなるくらいなら。
いっそ、告げてしまえばよかった。本当に城の中に閉じ込めて、部屋と執務室にしか行き来が出来ないようにして。
いやむしろ、手を出してしまえばよかったのか。私のお手付きだと知れば、もう誰も手出しなどしなかっただろうに。
「ああ、いや、違う……」
そうだ。そんなことをしても、本当に欲しいものは手に入らない。むしろきっと、彼女の心は私から離れてしまうだろう。
何せ彼女こそ、どこぞの貴族の男の落とし
「カリーナ……」
どうか…どうか無事でいてくれ。
そして出来ることならば、どうか…私の元へ帰ってきてくれ。いつものように、屈託のない笑顔を見せてくれ。
ここからいなくなったのは、君の意思ではなかったのだと言ってくれ。
そうして私を、安心させてくれ。
「私の、愛しい
戻って来てくれたら、今度こそ守り切ると誓おう。
何より。私も覚悟を決めることにする。
誰の手にも渡さぬよう、何人にも傷つけられぬよう。私にできる最大限の方法で。
そして同時に、もうこの想いを隠さぬことにする。手加減もしない。ただどろどろに甘やかして、私の元に。この手の中に、落ちてくるまで。
だから、カリーナ……
「帰ってきてくれ……」
ただ願うしかない、こんな哀れな男にどうか慈悲を。
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